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戻れない橋
61 裏をかいて
亜矢がカップを持って五十嵐の部屋に入ると、そこはこれまでになく散らかって、足の踏み場もないほどだった。
「ありがと」
踏まないように下書の上から身を乗り出して、五十嵐はコーヒーを受け取った。 そして、目が合うと、にやっといたずらっ子のように笑った。
「久しぶりに意欲が沸いちゃってさ、もうしっちゃかめっちゃか」
微笑みを返しながら、亜矢は少し気後〔きおく〕れした。 制作意欲が盛り上がっている最中に、不愉快な事情を知らせて、がっかりさせていいものだろうか。
それでも、ことは急を要する。 亜矢は自分を励まし、さりげない口調で告げた。
「ちょっと困ったことになったみたいで。 さっきお昼に手をつないでいたのを、見た人がいるらしいんです」
五十嵐は、思ったほど驚かなかった。 ただ顔が引き締まり、精悍な表情になった。
「ここの社内で?」
「ちがいます」
亜矢は急いで否定した。
「学校の同級生が電話で知らせてきました。 その人、五十嵐さんに紹介してくれたら話が広がらないようにする、みたいなこと言ってるんですが」
「へえ」
五十嵐の目に、皮肉な色が混じった。
「いったん噂になったら、無理に止めたりできないよな」
それから、床に散らばった資料を大股でまたいで、あっという間に亜矢の前に立つと、肩に手を置いた。
「こうなったら先手を打つしかない。 今夜お宅に伺うよ」
亜矢は、ごくんと唾を飲み下した。 早い。 意識が追いつけない。
「あの……」
「君が電話する? それとも僕があらかじめ御挨拶しておいたほうがいいかな」
「私がします」
声が頭のてっぺんから出た。
「でもあの、それでいいんですか?」
五十嵐はきょとんとした。
「いいって、僕はもちろん。 君は困る?」
「いえ!」
「オッケー。 じゃ、さりげなく仕事に戻って」
「はい」
半分ぼーっとしているうちに、亜矢はさっさと代表室から送り出されてしまった。
さりげなく、さりげなく。
亜矢はそそくさと自分のデスクに引き返し、やりかけの仕事にかがみこんだ。
すると間もなく、傍を通りかかった真際が頭を寄せて言った。
「題字の位置、もうちょっと低くして。 ほら、原稿はここだから」
「あ、はい」
すぐ消しゴムに手を伸ばしたとき、耳元で囁かれた。
「代表とうまく行った?」
亜矢の指から、ぽろりと定規がころげ落ちた。
今度はくすくす笑いが聞こえた。
「かれんさんにはお見通しよ。 他にも気づいてた人はいるはず。 みんな黙ってるけど」
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