表紙目次文頭前頁次頁
表紙

戻れない橋  59 申し込みの


 会社ビルのエレベーターは速い。
 特にその昼は、あっという間に一階へ着いてしまった感があった。
 本当にしぶしぶといった様子で、五十嵐は亜矢に回した腕を解き、小声で尋ねた。
「昼飯の買出し?」
「ええ」
「ついてくよ。 荷物持ちで」
 亜矢は胸がきゅんとなり、冗談で返した。
「シャチョーさんがペーペーの手伝いを?」
「非常に進歩的な会社なんだ」
「でも」
 嬉しさの中に、心配が影を落とした。
「食べに降りてくる人に、見つかったら?」
「一緒にいるところを見られたら嫌か?」
 逆に問い返された。 亜矢は困って、バッグを持ち直して間を取った。
「公私混同ってなるかなと思って」


 沈黙が落ちた。
 ビルのドアを出たところで亜矢が顔を上げると、五十嵐が真剣な表情で見ていた。
「はっきりさせたい。 できるだけ早く」
 突風が吹いて、亜矢のコートの裾がひるがえった。 朝の小ぬか雨はみぞれに変わり、道路の脇にぬかるみができはじめていた。
 亜矢が傘を開く前に、五十嵐は自分の大きな傘をパッと開いて差しかけた。
「こんなところだけど、さっき言い損ねたから。 つきあってほしい。 ちゃんと」
 そこまで言って、彼はぎくっとした。 形のいい頬骨のあたりが、煉瓦色に赤らんだ。
「おっと、高校生じゃないよ、まったく。 つまり、言いたかったのは、結婚を前提に付き合ってくれってことで」
 傘のボタンを押そうとした亜矢の手が、張り付いたように止まった。
 プロポーズだ……。
 また突風が二人を巻いて、傘を激しく揺らして通り過ぎた。 刺すように冷たい風だったが、亜矢は燃えるように上気して、寒さが消し飛んでいた。
 何か言わなくちゃ、と思っても、声が喉につかえる。 あせった亜矢は、しゃにむに手を伸ばして、傘の柄を握る五十嵐の手に、そっと添えた。
 その手の上に、五十嵐の手のひらが重なった。 ビルの前に立ち尽くしている二人の横を、通行人たちが次々と通り過ぎていった。


 食べ物屋を次々と回る間も、二人はあまり口を開かなかった。 その代わり、自然と体が寄り添った。 カウンターの前で、見えないときに指が触れ、手を握り合った。 外を行くとき、傘が視野をさえぎるのをいいことに、お互いの体温が伝わってくるほど近づいて歩いた。
 わずか十五分だが、それは濃密な時間だった。 お互いがどんなに大切か、言葉を尽くして語るよりも、傍にいるだけでじんわり心に染み入り、熱い実感となった。


 二人は、エレベーターで上がったところで、いったん分かれた。 お互いの気持ちはもう固まっているが、まだ二人で決めただけで、実家にも知らせていない。 仲を公表するには、段階を踏まなければならなかった。
 ワークルームに戻ると、待っていた連中がドッと寄り集まってきて、バッグから出した弁当群を亜矢が配る前に、すぐ無くなってしまった。
 それで亜矢は、飲み物を入れ始めた。 みんなの好みは頭に入っている。 手早く用意して、渡して回っていると、携帯が鳴りだした。






表紙 目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送