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戻れない橋  58 仕事は仕事


 亜矢と五十嵐が両手を取りあって見詰め合っていたとき、表のドアが開く音がかすかに聞こえて、受付の原の軽やかな靴音と陽気な挨拶が近づいてきた。
「おはようございます〜。 コドちゃん来てます?」
 二人はハッとした。 今が始業前の会社だということを、すっかり忘れていた。
 五十嵐は亜矢に顔を近づけ、短く囁いた。
「昼にまた話そう」
「はい」
 彼が素早い身のこなしで自分の部屋に消えた直後、ワークルームのドアが開いて、原が顔をのぞかせた。
「ごめんね、家の近くで交通事故があって、バスが止まっちゃって遅くなりました」
 彼女が何か気づいているとは思えないのに、亜矢はまっすぐ顔を上げられず、デスクをせっせと拭きまくった。
「大変だったですね、朝から」
「ほんと」
 原は他のことに気を取られていた。
「外で待たせなくてよかった。 もしかして、ドア開けっ放しだったですか?」
「いいえ」
 やっと気分が落ち着いたので、亜矢は手を止めて、笑顔で振り返った。
「五十嵐さんがもっと早く出社してらしたんです」
「へえ」
 原が軽く首をかしげた。
「じゃ、泊り込みかもしれないな。 最近多いの。 お宅に帰らないことが」


 すぐに社員たちがどやどやとやってきて、広い部屋が人で一杯になった。
 芸術家気質の集まりだから、朝礼などはない。 みんな挨拶を交わして、すぐ仕事に取りかかった。
 亜矢はその朝は事務作業を受け持っていた。 在庫を調べて、足りない部材をネットやファックスで注文し、届けが遅れている必要資材を催促し、出張している部員と連絡を取るといった仕事だ。 面倒なので誰もやりたがらない。 前は顎ひげの昆野〔こんの〕が一番若いので押し付けられていたというが、ときどき大ボカをしでかしては各方面に詫びを入れていたそうだ。
 亜矢が、自分なりに工夫した在庫表を点検していると、相澤テッケンが通りかかって、同情の言葉をかけた。
「ごめんね手伝えなくて。 ボクそういうのまったく苦手で」
 一応同期だが、仕事はベテランの域に入るテッケンに、亜矢は初めから手伝ってもらおうとは思っていなかった。
「いいんですよ。 それより教えてもらえます? この特殊粘土、どこで手に入りますかね? 調べてもわからないんですが」
「どれどれ」
 テッケンは手のひらに品名を書きなぐり、あちこちで作業している社員たちに聞きまくって、販売元を探してきてくれた。 亜矢は大いに感謝した。


 気持ちが明るいから、作業もはかどる。 昼前に上げてしまおうという望みもあって、亜矢は湯気が出るほどがんばり、午前中でおおかたの連絡を終えた。
 その日、弁当の注文は少なかった。 一人で充分持ち帰れる数だったので、亜矢はキャリーではなく大きなバッグを手に、軽い足取りでエレベーターへ向かった。
 中へ入ってボタンを押そうとしていると、いきなり横合いから大きな男性が入ってきた。 顔を上げた亜矢は、それが五十嵐と気づいて目を丸くした。
「あっ」
 彼は無言で腕を伸ばしてボタンを操作し、ドアが閉まったとたん、亜矢を抱きしめた。






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