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戻れない橋  57 至福の瞬間


 亜矢の頬が、燃えるように熱くなった。
 思い出が一方通行でないと知るのは、こんなに嬉しいものなのか。
 でも、どう反応していいかわからなくて、おたおたしているうちに、あることに思い当たってハッとなった。
「私が内定取り消されたの、知ってました?」
 一瞬ためらってから、五十嵐はうなずいた。
「ああ」
「だから、声かけてくれたんだ。 ここ、新卒採ったことがなかったんでしょう?」
「そうだよ」
 五十嵐はぶっきらぼうに答えた。
「最初は贔屓〔ひいき〕みたいなものだったかもしれないけど、でも君は自分の実力で仲間になったんだ。 望月はああ見えて、絶対に絵では妥協しないからね」
「誘ってくれた河内さんには、何て言ったんです?」
「いや、河内くんの方から話したんだ。 大きい仕事が終わって打ち上げ会やってるときに、うちの学校でひどい目に遭った後輩がいて、と言い出した。
 君の仕事を横取りした女が大嫌いだったらしい。 その女は、河内くんの彼女の同級生で、その人の作った優勝候補のトルソをこっそり壊して、出品できなくしたそうだ」
 汚いことをやる人間は、あちこちで繰り返しているものなんだ。
 亜矢は河内の彼女に同情した。
「壊したところを、誰かが見てたんですね」
「そうらしい。 学内で噂になったが、シラを切り通したって」
 そこで五十嵐は天井を仰いだ。
「僕も嘘つきだから、人のことは言えないけど」


 亜矢は何ともいえない気持ちになった。
「そんな人と一緒にしないでください」
「一緒だよ」
 暗く沈んだ目が、亜矢の顔の輪郭をたどった。
「ここへ誘ったのも、君によく思われたいと、どこかで考えたんだ。 もう九年も経ったから、顔なんか覚えていないだろうと賭けをした。
 それでも面接の日は、こっちのほうが心臓ばくばくだった」
 私に、逢いたかったんだ──
 亜矢は言葉を失った。
 その代わりに、腹の底から喜びが爆発した。
 いきなり両腕を広げると、どすんと五十嵐にぶつかって、力一杯抱きついた。


 どのくらい、無言で抱き合っていただろう。
 どちらも放心状態で、ひたすらぼうっとしていた。
 だが、やがて五十嵐が小さく身じろぎした。 そして、亜矢の耳元で、呟くように尋ねた。
「いいのか?」
 彼の厚い胸板の感覚が、ただ嬉しくて、亜矢は額をぐいぐい押し付けながら訊き返した。
「なにが?」
「付き合ってる奴がいるんだろう? そうだと真際さんが」
「えぇ〜?!」
 仰天して、亜矢はすっとんきょうな声を発してしまった。
「どこでそんな! 関川兄弟はありえないし……え? まさか、剣持保?」
 そこで亜矢は、不覚にも吹いてしまった。
「やだ、真際さんたら。 信じらんない。 あのシャレ男〔お〕さんが、私と話が合うように見えたのかな」
「シャレ男……?」
 五十嵐が嬉しそうに繰り返した。
「その人、どこかのお嬢さまと婚約してたんだけど、喧嘩別れして、それから私のこと構ってくるんです。 ただからかってるだけだし、私ははっきり言って迷惑」
「でも、諸条件が揃ってるって、真際さんが」
「諸条件……!」
 今度は亜矢がオウム返しして、また吹き出した。 幸福感にあふれているせいで、思春期のようにすぐ笑いが湧き上がってくるのだった。
「いい育ち、いい仕事、それにいいマスクってこと? それを言うなら五十嵐さんだって」
 いいのかな。 この人を本当に独り占めにして、いいのかな!
 亜矢はまさに、そのとき幸福の絶頂にいた。






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