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戻れない橋  56 見守るだけ


 目が合うと、五十嵐は姿勢を正して、まっすぐに立った。 そして、艶のない声で言った。
「来たんだ」
 幻の塊を飲み下すような気分で、亜矢は喉を動かし、かろうじて答えた。
「いつも通りですよ。 おはようございます」
 五十嵐は、寝癖のついたままの頭をつるりと撫でると、小さく溜息をついた。
「土曜に僕、何言ったかな。 半分ぐらいしか覚えてない」
「前に逢ったことがあるって」
 無意識に、やや冷たい答え方になった。
「その後、私を脅〔おど〕かしてました」
「え?」
 五十嵐は明らかに驚いた。
「僕が?」
「そうですよ」
 亜矢は話しているうちにだんだん腹が立ってきて、パネルを揃える動作に力が入った。
「誰かを殺したとかいって、嘘ばっかり」
 五十嵐は息を吸い込んだ。
「もし、嘘じゃなかったら?」
「嘘です。 お姉さまが教えてくださいました」
 とたんにガタンという音がした。
 亜矢は彼のほうを見ないようにしたが、荒々しい勢いで近づいてくるのを視野の隅に捉えていた。 でも逃げなかった。
 すると、いきなり肩を掴まれた。 痛いぐらいの勢いだった。
「何を聞いた?」
「たぶん、全部」
 揺すぶられたので、顔を上げずにはいられなかった。 そして、血走った必死な彼の眼と、嫌でも向き合わされた。
「僕のことは誰に言ってもいい。 だがル……姉は巻き込まないでくれ。 姉の連れ合いはむかつく奴だった。 僕とあいつはタイマンで……つまり二人でやりあったんだ」
 こうなったら自分ひとりで、罪を全部かぶるつもりなんだ。
 情けない思いで、亜矢は泣きたくなった。
「代表の何を言うと? やめてください! 犯罪なんかじゃなかったんだし、誰も問題にしてないじゃないですか。 警察だって、余計な仕事増やされたら迷惑ですよ」
 早口でまくしたてられた五十嵐は、一瞬あっけに取られた。
 それから、亜矢の肩を強く掴んでいたことに気づき、パッと手を離した。
「悪い……」
「悪くないです」
 亜矢はまだむくれていた。
「うちのおじいちゃんも、ウィスキー飲むとホラ吹くんです。 亜矢はかわいいなー、大きくなったら童話に出てくるような家一軒買ってやるからなー、って、ずっと言われてました。 でもシラフになったら覚えてないし」
「僕の話はホラでは……」
「もうやめて!」
 亜矢は彼を睨んで、ぴしっと言い返した。
「私の思い出をズタボロにしないで」
 そして、バッグのホルダーから一枚の画用紙を出して、五十嵐に突きつけた。
 それは、亜矢の描いたパツキンさんの似顔絵だった。


 少し手ずれした鉛筆書きのデッサンを、五十嵐はしばらくじっと見つめていた。
 それから、ぽつっと呟いた。
「特徴だけでなく、あのときの気持ちまで表現されてる。 まだ十二か十三ぐらいだったのに」
 紙を握る指に、力が入って白くなった。
「これを見てたのに、僕と気づかなかった?」
 亜矢は静かに答えた。
「描いてすぐ、机の引出しの奥に入れてたんです。 見るの辛くて。
 でも毎年、春になると思い出してました。 誰も探しに来なかったんなら、私だけでも覚えていようと勝手に思って」
「その本人が、ときどき見に来てたなんて、想像もしなかっただろう?」
 五十嵐の声が、不意にかすれた。
 亜矢は驚き、彼の手にしている似顔絵から、寂しげな表情に変わった横顔に目を移した。
「え?」
「最初は、誰かに見破られてないか確かめに行ったんだ。 でも、君があの猫を飼ってるのを知って、やっぱりいい子だったんだと思って、それからは」
 息を呑むようにいったん言葉を止めてから、彼はまた続けた。
「近くに行く用事があると、君の家の前を選んで通った。 まだ猫いるのかな〜とか思って。
 そのうちだんだん、用がなくても行くようになってた。
 夏と秋に、よく行った。 嫌なことがあったときも、何度か。 春には行かなかった。 近づこうともしなかった。 顔を思い出されたら困るから。
 友達にバイク借りたりした。 車を買い換えた後は、必ず行ったな。 同じ車種だと、近所に覚えられてストーカーと思われたらまずいだろ」






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