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表紙

戻れない橋  55 誰が元凶か


 千早は、書き疲れて乱れた筆跡で、最後に付け加えていた。
『私を救ってくれた犬のペリーは、何も知らない悠吾の友達に返されて、幸せな一生を送りました。 それだけは本当によかったと思っています。
 私達は、スキャンダルを恐れて手当てを遅らせ、波谷を死なせてしまったのかもしれません。 もしそうなら、責任はすべて私にあります。 どうか悠吾を責めないでやってください』


 読み終わった後、亜矢はしばらく動けずに、じっと座ったままだった。
 手紙の内容は詳しく、つじつまが合っていた。 余計な自己弁護は、いっさいなかった。
 こうして新しい光が当たると、五十嵐が歩道橋で見せた芝居は、まったく違うものに見えてきた。
 彼は、計画殺人を犯そうとした義兄が危篤になったとき、どこかへ放り出すこともできたのだ。 荒川周辺には、まだ人通りの少ない場所がいくらもある。
 だが五十嵐さんは、できるだけ早く救急車を呼ぼうとした。 助かるものなら、命を救おうとした。 とっさにあんな手を思いつくとは、さすが機転の利く代表だ。
 それにしても、不意に消えてしまったのに、誰も探さない波谷さんって……
 亜矢はデスクに頬杖をつき、目を閉じた。


 行方不明になる人は意外に多く、全国で毎年何千人もいるらしい。 たいていはしばらくすると帰ってくるが、わからなくなったままの人も少なくないと聞いた。
 私がふっと消えたら、両親はきっと探してくれるだろう。 もし事件に巻き込まれたりしたら、どんなに悲しむか。
 やはり非があるのは、人とのつながりを持とうとしなかった波谷さんのほうだ、と、亜矢は思った。
 千早さんが浮気などしていないのは、話し合えばすぐわかることだ。 自分こそ別の女性と住んでいたくせに、よく言う。
 そして、外科医は人の急所をよく知っているはずだ。 犬が飛びかかってこなかったら、容赦なく千早さんの息の根を止めていただろうと思うと、冷や汗が出た。
 五十嵐代表は悪くない!
 千早さんの言葉を信じる、と、亜矢は決断した。




 翌日の週初めは、小ぬか雨の降る寒い朝だった。
「この分だと、夕方には雪に変わるかもよ。 もっと分厚いコート着たほうがいいわ」
「なんか顔色悪いしな。 年末に風邪引くなよ。 楽しみが減るぞ〜」
 こっちは父だ。 いつもなら聞き流すところだが、昨日の思いが残っていて、亜矢は感激しそうになった。
「ありがと。 じゃ、ファーつきのやつに着替えてくる」
「そうそう、今日は素直だね」
「いつもだよ〜」
 気遣ってくれる人がいるうちが華だ。 コートだけでなく、手袋も揃いの人工ファーに換えて、亜矢は身軽に家を出た。


「おはようございます!」
 会社に入り、元気に言いながら受付を見ると、原の姿がない。
 あれ、入り口ちゃんと開いてたのに、と思いながら、亜矢はいつものようにワークルームに入り、簡単な清掃を始めた。
 そのうち、耳のあたりがちりちりし出した。 一人じゃない、という気がする。
 出しっぱなしになっていた椅子をデスクに戻したところで、周囲を見回した。
 すると、五十嵐代表の部屋に通じるドアが開いていて、彼が戸口に寄りかかっていた。






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