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戻れない橋  53 救いの主は


 そんな弱々しい声では、とても外には届かない。
 だが一人だけ、いや一匹だけ、千早の切羽詰った叫びを聞き分けたものがいた。
 そして、刃物に慣れた波谷が、使いやすいようにカッターナイフを持ち直した瞬間、唸りを上げながら、いきなり背後から飛びかかった。


 ほとんど足音を立てず、声も出さずに忍び寄ったペリーに、波谷はまったく気づいていなかった。 興奮と緊張で、周りに注意する余裕などなかったのだ。
 だから、完全に不意を突かれた。 衝撃で飛び上がった後、犬ともつれ合いながらソファーから転げ落ちた。
 同時に、鈍い音がした。 まるでメロンがつぶれたときのような、グジャッという不吉な音が。


『……ペリーがもがきながら離れた後、波谷の低い呻き声が聞こえました。
 私はソファーに埋まったまま、なかなか起き上がれませんでした。 なんとか身を起こした後も、足元に波谷が倒れているので怖くて足を下ろせず、肘掛のほうから転がり落ちるように逃れました。
 見ると、波谷は目を閉じて、横たわったままでした。 顔が真っ青で、口から泡が少し出ていて、どう見ても普通ではない状態でした。
 救急車を呼ぶべきだと、頭ではわかりましたが、膝ががくがくで、携帯電話を取ったとたん、反射的に弟の番号を押していました』


 悠吾は仕事中だったようだが、十五分で駆けつけてきた。 その間、千早は部屋の隅にうずくまり、ペリーに頼って抱きしめたまま、もうろうとした状態だった。
 やがて入ってきた悠吾は、支離滅裂な千早の電話からでも大体の事情を理解していたらしく、緊張した様子ながらも、すぐソファー前の床に膝をついて、倒れている波谷の様子を調べた。
「頭を打ったみたいだ。 血は出てないから、ペリーは噛みついてない」
「骨が……砕けたような音がしたの……」
「自業自得だろ!」
 悠吾は、一瞬鬼のような顔になった。
「正当防衛、っていうか、そもそもルリちゃんは何もしてないし」
 そこで彼は、あることに気づいて、髪に手を突っ込んでくしゃくしゃにした。
「だけど、ペリーのせいにされるかもな。 ルリちゃんを守ってくれたのに、処分されたりしたら」
「だめよ!」
 二人は青くなって顔を見合わせた。
 悠吾は緊張して乾いた唇を湿し、自分そっくりの服装をした義兄を睨みつけた。
「ともかく、こいつを医者に見せなくちゃ」
「救急車呼ぶ?」
「いや、それじゃ騒ぎが大きくなる」
 機敏な悠吾は、すぐ考えついた。
「浩策〔こうさく〕叔父さんのところへ連れて行く。 叔父さん脳外科だし、口が固いから」
「そうね」
 幸い、ガレージは一階に付属していて、家の中から入れた。 建築業で鍛えた悠吾は、ぐったりした波谷を軽々と肩に担ぎ、車の後部座席に横たえた。







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