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戻れない橋
52 不意の訪れ
『ある日、悠吾が犬を連れてきました。 一軒家の女一人暮らしでは危ないと言って。
友達が留学するので、二匹預かったうちの大きいほうでした』
姉弟は、どちらも大変な動物好きだった。 だから千早は弟の心遣いを喜び、ドン・ペリニオンという酒にちなんでペリーと名づけられた大型犬をかわいがって、楽しく暮らしはじめた。
ペリーはよくしつけられていて、無駄吠えしない良い犬だった。 ただ、非力な千早では引っ張られてしまうため、散歩は専門業者に頼んだ。
『ペリーを飼いはじめて一ヶ月ほどした頃、昼過ぎに人が訪ねてきました。
玄関ドアのガラスに金髪の男性の影が映ったので、悠吾だと思い、すぐ開けました。
でも、急に押し込んできたのが悠吾ではないとすぐわかって、思わず悲鳴をあげました』
相手はすぐドアを閉めて振り返った。
初めは、まったく見知らぬ不良か何かかと思った。 だが、顔がよく見えるようになると、別居中の夫だとわかって、あっけに取られた。
波谷はきれい好きで、いつもきちんと髪をカットし、皺一つない服装をしていた。 それなのに目の前にいる男は、裾が丸まった短いデニムの上着と、古びたジーンズという、普段の波谷なら顔をしかめそうな物を着流していた。
そして何より異様なのは、髪の毛だった。 ばさばさで、しかも白っぽい金髪なのだ。 あまりの変わりように、千早は自分が白昼夢を見ているのかと思った。
身なりを変えると気持ちも変化するのか、波谷は表情まで荒っぽくなっていた。 しかも挨拶しないでどんどん入ってくるので、千早は後ずさりして、リビングに押し込まれる形になった。
「もっと叫べよ」
そこでようやく発した夫の第一声は、いっそう奇怪なものだった。
『波谷の目は血走っていました。 私はもともと弱虫で怖がりなのですが、あのときは確かに身の危険を感じて、心臓が凍りそうでした。
波谷はジャケットの前を持ってひらひらさせた上、鼻のピアスを指ではじいて、こういう奴と浮気してるんだろう? と言いました。
それで私はやっと、夫が悠吾を愛人とまちがえているのに気づきました。 説明しようとしましたが、怖くて口が回らなくて、ソファーにつまずいて倒れこみました』
「生命保険、かけといたよ。 君と僕と同額の一億円。 これ以上でも以下でも疑われるっていう、手ごろな金額だと思わないか?」
千早は何とかもがいて、ソファーから立ち上がろうとしていた。 そこへいきなりの保険宣言だ。 この人、私を殺そうとしているんだ、と悟ったとたん、腰を抜かして、また転びかけた。
そんな千早に、波谷は体を低くしてのしかかった。 取り付かれたような目が、今は充血していた。
「人をなめるのもいい加減にしろよ。 選ばれたときは、けっこう嬉しかったんだぞ。 なのにその理由が、あいつに似てたからだ? ふざけんな!」
欲に嫉妬がからんでいる。
恨み言を並べながら波谷はポケットから大型のカッターナイフを手に取り、カチカチ音をさせて刃を大きく繰り出した。
「似てて、一つだけ取り得があったよ。 この格好してれば、あいつがやったことにできるよな」
「……無理……!」
やっとの思いで一声しぼり出した後、ようやく続けて叫ぶことができた。 かすれた細い声だったが。
「助けて〜〜!!」
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