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表紙

戻れない橋  50 元を正せば


 十五分ほどして家に帰ると、母は買物に出かけたらしくて姿がなく、父は庭でゴルフのパット練習をしていた。 鼻歌を口ずさみながらクラブを振っている後姿がガラス戸越しに見えたので、亜矢は気づかれないように忍び足で二階に上がった。 話しかけられても普通に答える余裕がなかった。


 着替える間にも、机に載せた封書が気になって、何度も視線を向けた。 次第に動悸が速くなる。 真実を知りたいのか、何もかもなかったふりをして代表の無実だけを信じ、頭から追い払いたいのか、自分の本心が自分でわからなかった。
 やがて、丁寧に鋏で封を切って、椅子にきちんと腰掛けてから便箋を出した。
 優雅な差出人にふさわしく、紙質は和紙で、細かい透かしが入っていた。


『古藤亜矢さま、不意にこんな手紙をお渡しするぶしつけをお許しください。
 あんなことになった元々の事情は、ずいぶん昔のことから話さないと、わかってもらえないと思います。 それで、私達姉弟の生い立ちから書きます──』


 五十嵐家は、曽祖父の代で医者になった。
 大政奉還で武士の職分を失い、東京と名を変えた江戸で医学を学んで、郊外で開業したのだ。
 評判は上々で、三人いた息子はすべて医学部に入った。 次の代では医師が五人になり、一族で初の女医も誕生した。


 初代の直系曾孫〔ひまご〕にあたる五十嵐正太郎(千早と悠吾の父)は、当然のこととして、息子か娘が医者になって、立派に育てた病院を継ぐものと思っていた。
 ところが、その願いは叶えられなかった。 長女の千早は子供のときから引っ込み思案で、しかも血を見るのが大嫌い。 これは医学部なんてとても無理だと、一族全員が認めていた。
 それにひきかえ、長男の悠吾は気が強く、運動神経抜群で、リーダー的性格だったので、父の期待を一心に背負った。
 だが、思いもよらないことから、悠吾は絶対医者にはならないと自分で決めていた。 解剖や動物実験などできっこないというのだ。
 獣医なら我慢すればなれるかもしれない、と息子に言われて、五十嵐病院長は激怒した。


『……大学受験前に大喧嘩して、悠吾は家を追い出されました。 父としては、息子はそれまで豊かに暮らしてきたのだから、生活費がなくなれば頭を下げて戻ってくるだろうと思ったのでしょう。
 でも弟は、自活の道を選びました。 工務店の見習いに入って、がんばって働き出したのです。
 彼の職場を教えてもらったのは私だけでした。 父に知られたら、きっと邪魔されるからです──』


 悠吾が五十嵐家から消えて三年後、跡継ぎにするのをあきらめた正太郎院長は、年頃になった娘に婿を取ろうと考えた。
 それで、医者たちのお見合いパーティーに何度か千早を連れて行き、条件の揃った若手医師の中から、一人を選ばせた。
 波谷明敏〔なみたに あきとし〕というK大医学部卒のエリート外科医で、奨学金を受けていた苦労人だった。


『……今考えると、私が波谷を好ましく思ったのは、見た目が悠吾に似ていたためかもしれません。
 悠吾は子供の頃からしっかりしていて、私がいじめられるとすぐ庇ってくれました。 年が二歳しか違わないのもあって、普通のきょうだいより仲良しだったと思います。
 ずっと悠吾に頼っていたので、急にいなくなって心細い気持ちでした。 電話でしか相談できないし──』


 父に逆らうだけの度胸がない千早は、別に大した不満もなく、波谷と数回会っただけで、求婚を受けた。
 彼が病院の後継を狙っているのは承知の上だった。 世間によくあることだからだ。 だから、波谷が普通の夫として接してくれれば、おたがい妥協して並みの家庭を作れるだろう、ぐらいに冷静に考えていた。
 なんとも情熱のない話だが、もともと千早は静かに暮らすのが好きな子で、学校時代も男子に迫られると、おびえて逃げてしまったという。
 恋愛には向かないのだと、自分でわかっていた。







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