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表紙

戻れない橋  49 必死の訴え


 その封書は、空気をはらんだようにふくらんでいた。 分厚いのだ。
 こんなにたくさん書くことがあるなんて、よほどの事情にちがいない。 亜矢は困って、目をしばたたかせた。
「あの、私は入社したばかりの平社員ですし、代表の個人的なご事情を知るべきではないんじゃないかと」
「そうですか?」
 不意に千早が、視線をまともに据えてきた。 自然な二重瞼が柔らかな曲線を描き、口元も優美で、女でも見惚れるほど綺麗だ。 こんな美人に生まれるって、どんな気持ちなんだろう、と、亜矢は思わず想像してしまった。
「あなただから、弟は酔った勢いでしゃべってしまったと思います。 だから余計に辛〔つら〕いんです。 悠吾がかわいそうで」
 亜矢は、危うくコーヒーをこぼしそうになった。
 しっかりして人あしらいのうまい五十嵐代表を、会社の全員が頼っている。 彼は会社のエンジンであり、支柱でもあった。 そんな彼を、かわいそうと言う人がいたなんて。
「歩道橋に行く前に、猫を助けてくれました」
 言葉が勝手に口から飛び出した。
「捨てられてたみたいで、ゴミみたいに汚かったんですけど、全然ためらわずに、ぱっと手を出して拾ってくれました。
 とっさにああいうことできる人に、悪い人はいないと思います」
 亜矢を大きな眼で見つめたまま、千早は小声で囁いた。
「橋から落ちたとき、あなただけが悲しんでくれたと、弟が言っていました。 他に何人かあの場にいたけれど、みんな野次馬だったのに、あなたは見物に来ないで、立ったまま暗い顔をしていたと」
 生垣の間から見ていたんだ。
 亜矢は不思議な気持ちになった。 あのとき、道の向こうで、死を偽装した若者が、息をこらすようにして経過を見守っていたのだ。 そして、成功したのを確かめてから、こっそりと立ち去った。
「死なせたなんて、嘘ですよね?」
 千早を強く見返して、亜矢は同じく囁きで尋ねた。 四人いる他の客とは距離があったが、決して聞かれてはならない問いだったから。
「どうしても信じられないです。 想像できない」
 すると千早は、口を固く結んだまま、大きくうなずいた。
「ちがいます。 何に誓ってもいいです。
 嫌なことに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。 もうお引止めしませんから、どうかそれを読んで判断してください」
 うつむき加減で立ち上がろうとする千早に、亜矢はどうしても訊きたいことが一つだけあった。
「あの」
 バッグを取った手が空中で止まった。
「はい?」
「すみません、なぜ『ルリ』と呼ばれていらっしゃるのかと思って」
 そのとき初めて、千早の悲しげな顔に、淡い微笑みが浮かんだ。
「ああ……父がつけた仇名です。 浅丘ルリ子さんに似てるとか言って。 親馬鹿なんです。
 じゃ、すみません、お先に」
 優雅に会釈すると、千早はそそくさと言っていい速さでカウンターに向かい、会計を済ませて立ち去った。 どうも恥ずかしがりの人見知りらしかった。


 手紙をショルダーに入れてから、亜矢は考えに沈みながらコーヒーを飲み終え、ゆっくり金を払いに行った。
 そこで、穏やかな男性店主に言われた。
「ああ、もうお支払いは頂いてますから」






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