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表紙

戻れない橋  48 一大決心で


 亜矢は思わず目を泳がせた。
 このかよわい声が、会社にケーキを差し入れてくれた五十嵐代表のお姉さんなのか。
 とても内気そうだ。 いきなり初対面の相手に電話してきて、駅前に呼び出すような人柄とは思えない。
 五十嵐代表の告白が原因なのだ。 そう悟って、亜矢は電話を持ち直し、すぐ答えた。
「初めまして。 これからすぐ伺います」
「そうですか。 ありがとうございます」
 明らかにホッとした様子で、波谷千早はほとんど聞き取れないほど静かに電話を切った。


 亜矢は手早く服を着替え、メイクもそこそこに家を出た。
 両親には、上司のお姉さんに会いに行くとだけ話した。 急な呼び出しに、二人ともいぶかしげな顔をしていたが、詳しくは訊かなかった。
 ただ、出かけるときに母が、心配そうに囁いてきた。
「会社で、なんかあった?」
「仕事のことで? ううん、ないよ」
「ふーん」
 靴に足を押し込みながら、亜矢は母の肩をポンと叩いた。
「失敗なんかしてないから。 ほんと大丈夫だから」
 でも、次に呟いた母の一言が胸を刺した。
「そう? なんか昨日から、いつもと雰囲気違うよ」


 イタリアのアドリア海にちなんで名づけられたカフェ『アドリアーナ』は、駅を挟んだ東口にあった。
 亜矢が真っ白な扉を開けて中に入ると、カウンターの傍に立っていた女性が振り返った。
 その顔を見て、亜矢は思わず目を見張った。 この人、知ってる。 五十嵐さんがルリちゃんと呼んでいた美人さんじゃないの!
 波谷千早は小走りに近づいてきて、手を取らんばかりに迎えた。
「すみません、お呼び立てして。 お宅に伺うとご迷惑になると思ったので」
 窓際に二人で席を取った後、亜矢は思い切って言った。
「前に一度お目にかかりました。 会社の前の廊下で」
 千早は、あ、という表情になった。
「朝早く、ですか?」
「はい」
「ああ、あのときの……」
 緊張した顔が、少し和らいだ。
「あの礼儀正しいお嬢さんですね。 あの朝はちょっと落ち込んでて、お顔を覚えてなくてすみません」
「いえ、そんな」
 堅苦しい挨拶が続いて、亜矢は息苦しくなった。
 そこへ水が運ばれてきたので、千早はモカを、亜矢はラテを頼んだ。
 これがきっかけになった。 千早は居ずまいを正し、改まった声で話し出した。
「昨夜、悠吾〔ゆうご〕が言ったことですが」
 やはり、その話だ。
 亜矢は悩みながら、なんとか声を出した。
「あれはお酒のせいじゃないかと。 できれば、聞かなかったことにしたいんですが」
「お気持ちはありがたいですけど」
 意外にも、千早はきっぱりと言った。
「それでは誤解が残ってしまいます。 弟は何も悪くないんです」
 コーヒーが来たので声を低めたものの、千早のしっかりした言葉は止まらなかった。
「九年前、私たち姉弟はどうしたらいいかわからなかったんです。 そうなったのは、もっと前からの事情で」
 話し方とはうらはらに細かく震える指で、千早はバッグから封書を取り出し、亜矢の前にそっと置いた。
「口で説明すると、あまりにも長くなるので、書いてきました。 これ以上悠吾を苦しめたくないし、特にあなたには本当のことをわかってほしくて」






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