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表紙

戻れない橋  47 呼び出され


 帰りのバスに総勢四人で乗り込んだのは覚えているが、電車ではどうだったのか、地元の駅からどのように家に帰ったのか、亜矢はほとんど記憶になかった。
 我に返ったのは、娘の帰宅を気遣って煌々〔こうこう〕と電気をつけたままの玄関に入り、ただいま、と呼ばわった瞬間だった。
 居間にいた父が、すぐに戸を開いて顔を出した。
「おかえり。 お疲れさん、もう十時過ぎてるよ」
「うん、疲れた」
 それだけ言うのが、やっとだった。 幸い父は、顔色が悪いのは疲労のせいだと思ってくれて、亜矢がほとんど何も言わずに二階へ行こうとするのを、別にとがめなかった。


 自室に入るとすぐ、通勤着のまま、亜矢はベージュのチェストに駆け寄って、一番下の引き出しを開けた。
 少し探して引っ張りだしたのは、昔のスケッチブックだった。 床に座って中をめくっていくと、六枚目に、それがあった。
 パツキンさんの似顔絵。
 石になったように、亜矢は無言でしばらく鉛筆書きのデッサンを見つめていた。
 この画帳を開いたのは、あの日以来だった。 束の間の触れ合いの後、突然死んだ若者の残像を見るのが辛くて、引出しの奥に押し込み、それっきりだったのだ。
 改めてしばらくぶりに目にした瞬間、驚きと、わずかな嬉しさが心に沸いた。
 その絵は、彼の特徴をしっかり描き留めていた。 とりわけ、亜矢が強く惹かれた独特な目の表情を。
 髪の色とピアスを除けば、その魅力的な顔立ちは、五十嵐代表そのものだった。


 やはり彼は生きていた。
 信じがたいことだが、こうなるともう疑えなかった。
 では、彼そっくりの死体は、いったい誰?
 まるでドラマの主役と代役みたいだ、という考えが、頭をかすめた。 ただこの場合、危険なスタントをやったのが五十嵐で、もう一人はただ横たわっていただけだった。
 あまりにも鮮やかなすりかわり。
 計画殺人なのか?
 亜矢は激しく頭を振り、両手で耳を塞いで目を閉じた。
 そんなこと、彼の人柄からして、想像もできなかった。


 スケッチブックを閉じた後、亜矢は階下に降りて風呂だけ使い、食事はもう済ませたと言って、ベッドにもぐりこんだ。
 眠れないかと思ったが、意外にもカクッと寝入ってしまった。 夜中ずっと重しをかけられたように体がだるく、様々な夢が現われては目まぐるしく消えていったというぼんやりした記憶があるものの、朝には何も覚えていなかった。


*


 翌日は日曜日だったので、九時過ぎに頭くしゃくしゃで降りていった。
 昨夜食べなかったカレーを、母がパンに挟んでホットサンドにしていた。 ポタージュと食べているうちに気分がよくなって、年末の予定を話していると、父がもっと頭ぼさぼさで起きてきた。
「おはよ。 あ、もうそんなに早くないか」
「おはよう、お父さん。 休日にしちゃ、まあまあでしょう」
 平日の朝は出かける時間が違うので、あまり一緒にならない。 一週間ぶりの家族団欒でなごんでいると、十時を回ったときに電話が鳴った。
 食後のコーヒーを飲んでいた母が、いぶかしげに近くの受話器を取った。
「もしもし、古藤ですが」
 それから姿勢を正して、いっそう丁寧な口調になった。
「はい、娘はここにおります。 今代わりますのでお待ちください」
 会社の人だろうか。 その中でも特に……。
 胸騒ぎを感じながら、亜矢は立ち上がって、母から電話を受け取った。
「古藤亜矢です。 お電話代わりました」
 一瞬の間があって、それから細い女性の声が返ってきた。
「波谷〔なみたに〕といいます。 お休みの日に、すみません。 どうしても会ってお話したいことがあって。
 あの、勝手ですが駅前の『アドリアーナ』というカフェに来ていただけます?」
 は?
 波谷──まったく知らない名前だった。 しかし、話し方にはどこか聞き覚えがある気がした。
「あの」
 亜矢が相手の素性を訊こうとしたとき、同時に相手も気づいたらしい。 声がいっそうおぼつかなくなった。
「ごめんなさい、私が誰かわかりませんよね。 私、五十嵐悠吾〔ゆうご〕の姉です」






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