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表紙

戻れない橋  46 衝撃の後に


 膝が崩れそうになって、亜矢は後ろを手探りし、デスクの端にぎりぎりで掴まった。
 五十嵐は窓ガラスに額をつけ、二秒ほどじっとしていた後、窓枠に座り直した。 体の向きが変わって、亜矢から横顔が見えるようになった。
 弱い灯りに照らされた彼の顔に、影が斜めに落ちた。 目を半分閉じている。 深酒のせいか、息が苦しげに見えた。
 亜矢は、その横顔から目を離せなかった。
 意識がちりぢりになって、どうしてもまとまらない。 ただ、一つの言葉だけが、頭の中を飛び回っていた。
──パツキンさんは、冷血じゃない!──
 そうだ。 彼がわざと人を殺したなんて、ありえない。
 こんなに頭がごちゃごちゃになっていなければ、胸がこんなに痛くなければ、何か思いつくんだけど。
 亜矢は、見えない力に突き動かされて、よろよろと前に進んだ。
 逃げるどころか、逆に近づいてくる亜矢に気づき、五十嵐はわずかに頭を動かして、正面から見据えた。
 すると、外から入り込んでくる街の光が顔の縁を染め、幻のように浮き上がった。
 これはほんとに、現実?
 亜矢は突然、不安になった。 やみくもに右手を伸ばし、彼のシャープな顔の輪郭を手のひらで包んだ。
 その皮膚は、確かに温かかった。 彼は現実に、そこにいた。
 泣き笑いに近い表情になって、亜矢は囁いた。
「パツキンさん、生きてたんだ。 よかった」
 それからゆっくりと手を下ろすと、自動的に通路側のドアに向かった。 足がもつれて、夢の中をただよっているようだった。


 もう受付の原は帰った後だったので、廊下に出るのは簡単だった。
 亜矢はまっすぐ出窓に歩み寄り、五十嵐が眺めていたのと反対側の景色を見つめた。
 誰も知らない五十嵐代表の秘密。
 この後も決して、亜矢の口から漏れることはない。
 それだけははっきり言えた。
 でも、彼自身はどう思うだろう。 酔った勢いで口をすべらせたのを、覚えているだろうか。
 私が彼を守りたいと願っているのを、わかってくれるだろうか。


 五分ほど立っていると、ショックから起きた目まいが収まってきた。
 亜矢は何歩が歩いてみて、それからワークルームに戻った。
 外側からドアを開けて入ると、帰り支度をしていた真際が気づいて声をかけた。
「コドちゃん、どこ行ってたの?」
「あの、眠くてしょうがなくなったんで、廊下のベンチで居眠ってました。 すみません」
「あれれ〜」
 部屋のあちこちで笑い声が上がった。 みんな怪しまずに信じてくれたらしい。
「このところ残業続きだもんね。 あんまり代表の部屋から出てこないから、心配になって、さっき覗いたのよ。 そしたら五十嵐さんはデスクでつぶれてるし、コドちゃんはいないし、どうしちゃったんかな〜って」
 その前に五十嵐さんの部屋を出ていてよかった。
 亜矢は密かに胸をなでおろした。






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