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表紙

戻れない橋  45 酒の上の話


 あの、猫?
 それは明らかに、知っている話し方だった。
 なんで、うちのミキちゃんのことを?
 戸惑いながらも、亜矢は明るく答えた。
「はい、とても元気です。 ちっちゃいときは痩せっぽっちでしたけど、今は巨大で」
「知ってる。 見た」
 そう言って、五十嵐は小さくしゃっくりした。
 亜矢は首をかしげた。 ミキは家猫で、外を出歩かない。 酔っ払いの冗談かな、と思っていると、五十嵐は濁声〔だみごえ〕になって続けた。
「外、散歩させてただろ。 赤い紐つけて」


 そこでようやく、妙な落ち着かない気分になってきた。
 確かに中学の夏休み、ミキを二回ほど外に連れ出したことがある。 テレビの動物番組で外国の猫が散歩している図を見て、ちょっとやってみたくなったのだ。
 でも、リードを買うほどのことはなかったので、たまたま家にあった組みひもで代用した。
 赤一色の紐だった。
 しかし、ミキがあまり喜ばず、途中で座り込んだりしたため、すぐ止めてしまった。
「なんで……?」
 五十嵐はまたコップに口を当てて、最後まで飲み干した。
「見に行ったからさ」
 全然わからない。
「なにを?」
 すると五十嵐は顔を上げ、いくらか面白がっているような目付きを、亜矢に向けた。
 亜矢はその視線から逃れられなくなった。 五十嵐が猫を覚えているように、亜矢もその独特な眼差しを忘れられなかった。


 知らぬ間に、亜矢は口を抑えた。 その指がみるみる震えはじめ、唇の上をすべった。
「あなた……!」
 視線を亜矢のわななく指に据えたまま、五十嵐は口元をほころばせた。 同時に、頬の横がピリッと引きつった。
「思い出した? やっぱりな。 絵を描く人間は、観察力が鋭いよな。 たとえ子供でも」
 亜矢は両手を拝むように合わせて、顔に押し当てた。
 手のひらの間から、言葉が虚空に散った。
「……パツキンさん……」
「そう呼んでた?」
 五十嵐は体が重そうに立ち上がり、よろめきながら窓に歩み寄った。
 その背中に、亜矢は息が詰まりそうになりながら、やっとの思いで囁きかけた。
「パツキンさん、死んだじゃない。 歩道橋から落ちて、警察に似顔絵出たじゃない!」
「そうだよ」
 からかうような声が返ってきた。 いや、もしかしたら自分を笑っていたのかもしれない。
「落ちたのはオレ。 でも、死んだのは別のヤツ」
 一瞬、亜矢の脳裏にひらめいたのは、まったく同じ服装と髪型のパツキンが二人、歩道橋裏の空中で交差しながらすれ違う映像だった。
 ありえない。
 そんなの、重力を無視してる。
「できっこないよ」
「普通はな」
 彼の声に、誇りの響きが加わった。
「でも、オレにはできた。 高校一年まで体操部だったからな。 デカくなりすぎて選手はあきらめたけど。 あの猫みたいに」
「お……落ちなかったの?」
「ああ、歩道橋の支えに手かけて、そこから木に飛び移って、生垣に隠れた」
 そうか。 それで、前もって置いておいた死体を見つけさせたんだ。
 死体、という言葉を心に思い浮かべただけで、氷のような冷たさが背筋を這い降りた。
「なんで……!!」
 悲鳴を必死でこらえたせいで、声が上ずった。
 窓から夜景を見つめたまま、五十嵐はまるで普通に、あっさりと答えた。
「オレが殺したから」






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