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戻れない橋  44 酔った末に


「たまには電車で帰るのも面白いわね」
 真際はご機嫌だった。 その日は、久しぶりに戻ってきた夫が車を使っていて、電車通勤したのだ。




 翌日は土曜日だが、亜矢には出勤日だった。 普段よりぐっと空いている電車で、いつもの時間に出社した亜矢は、まだ誰もいなくてガランとしたワークルームをいつものように整え、あるタウン雑誌の挿絵に取りかかった。
 やがてぽつぽつと人数が増え、部屋にいつもの活気が出てきた。 そのうち臨時に真際も現われて、急に入った仕事を嘆きながらも、精力的に取り組んでいた。
 最近、五十嵐代表はめっきりワークルームに姿を見せなくなっていたが、その日は午後に二人連れの客が来て、ワークルームに入ってきたため、応対しないわけにはいかなくなった。
 二人は会社創設以来のなじみ客だそうで、代表が出てくるまで高畠や真際と親しく挨拶して、過去の話に花を咲かせていた。
 やがて五十嵐が、急いで現われた。
「富岡さんに小倉さん! 墨田ページェントのときはありがとうございました」
「いやこちらこそ。 あの飾り付けは評判高くてねえ。 あの後で何件か、こちらへ依頼が殺到したんじゃない?」
 和気あいあいと握手を交わした後、二人の客は半ば強引に五十嵐を連れ出していった。 外でゆっくり相談をしたいらしかった。




 予備日だというのに、その日も仕事が重なった上、予定より遅れ、自分の分が終わった後も、亜矢はいろいろ手伝いをしていて、なかなか帰れなかった。
 夜の八時をずいぶん過ぎて、時間が気になってきた頃、五十嵐代表の部屋で物が落ちるような大きな音がした。
「あれ?」
 近くにいた西崎という若手社員が気づき、ノックして覗いた。
「五十嵐さん、帰ってたんですか?」
 そして、ドアを開けたまま中に入って、すぐ出てきた。
「やばいよ、代表酔っぱらってる」


 真際が下書きをデスクに置いて、眉をひそめた。
「富岡さんったら、困ったわね。 昔のよしみで、無理に飲ませたんだ」
 それから不意に亜矢に向き直り、小声で頼んだ。
「悪いけど、水持ってってあげて。 深酒したの、ずいぶん久しぶりだから、気分悪いと思う」
「はい」
 戸惑いながらも、亜矢はすぐミネラルウォーターをコップに移して、代表の部屋に行った。


 部屋は薄暗かった。 メインの照明は消されたままで、コンピューター付近のスポットライトだけが灯っている状態だ。
 たそがれを思わせる弱い光の中で、五十嵐はデスクに寄りかかるように浅く腰掛け、うつむいて床の一点に目をやっていた。
「失礼します」
 挨拶して入った亜矢が、後ろ手にドアを閉めると、五十嵐はゆっくり顔を上げた。 いつも背筋が立ってめりはりの効いている上半身が、クタッとなった操り人形のように頼りなく見えた。
「君……?」
「古藤です。 水お持ちしました」
 ことわって近づいたとき、霧のようにただよっている酒の匂いが鼻をついた。 確かに相当な量を飲んだようだ。
 亜矢がコップを渡そうとすると、ぼんやりした代表の視線が、差し出された手の袖口を捉えた。
「毛が、ついてる」
 え?
 亜矢はあわてて、その日着てきた黒いセーターの袖を目に近づけた。
「あ、これ、ミキちゃんの毛です。 うちの猫の。 いつもブラシかけるのに、今日は取りきれなかったみたいで」
 五十嵐は体をわずかに揺らし、不明瞭な声で訊いた。
「白猫?」
 大事にしている家族猫の話をするのは楽しい。 亜矢は思わず弾んだ声音になった。
「いいえ、黒っぽい縞ですけど、白い毛もあるんです。 もう十歳ぐらいで、甘ったれで、先輩のオウムと仲良しなんですよ〜」
 五十嵐は顔をあお向けて、コップの水を一口で半分ほど飲んだ後、フーッと息を吐いた。
 それから、妙にはっきりと言った。
「まだ元気なんだな、あの猫」






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