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表紙

戻れない橋  42 虻蜂取らず


 それから四日後、またも残業で遅くなった亜矢は、同じ作業をしていた昆野や前原と一緒にバスで駅まで行った。
 そこで前原と別れ、いつものように昆野と二人で乗った車両で、亜矢は剣持保と再会した。 昇降扉の近くに立って、どっちも好きな画家について話していて、誰かの視線を感じて横を見ると、近くの座席に座っていた剣持と目が合ったのだ。
 すると彼の唇が横に広がり、淡い微笑みになった。 表情豊かな澄んだ眼が、昆野に動いてからまた亜矢に戻り、ほとんどウインクに近い形を取った。
 あ、昆野さんのこと、カレシだと思ってる。
 亜矢は目を細め、小さく頭を振って否定した。 その動作を見た昆野が、いぶかしげに座席のほうを見ると、よせばいいのに剣持は愛想よく会釈した。
 何なんだ、あの人!
 亜矢は彼のなれなれしさにガックリした。
 人見知りをしない昆野のほうも、ぺこっと頭を下げながら、いぶかしげに亜矢に低く尋ねた。
「あれ、コドちゃんの彼?」
 うわ〜〜。
「そんなんじゃないから。 ただの知り合い」
「でも、すごいカッコいい」
「よくない!」
 思わず声が大きくなった。 あわてて剣持のほうをチラッと見ると、彼は歯を見せて笑っていた。


 ひねたユーモアのある剣持には、ちょっとした偶然の出会いが面白かったかもしれない。 だが亜矢にはちっとも楽しくなかったし、たまたま一緒にいた相手が悪かった。 昆野は悪気がないにしてもおしゃべりで、翌日さっそくワークルームでの作業の合間に、周りに話してしまった。
「そういえば、昨日電車でクドちゃんの男友達に会いましたよ〜。 すっげー美形で驚いた」
 傍で子供の顔のイラストを描いていた亜矢は、いきなりの不規則発言に飛び上がった。
「だからあれは! 友達じゃないですって! ただの、ほんのかすったぐらいの知り合い」
 その慌てようが逆に勘ぐられたらしい。 石抜小枝〔いしぬき さえ〕というベテランの女性イラストレーターが、陽気な声で話に加わった。
「美形? タレントでいうと誰に似てた?」
「そうだな〜。 中村俊介っているでしょ? 上品な感じの。 彼の目をもう少し大きくしたような顔だったですよ」
「ああ、浅見光彦やってた人ね」
「浅見光彦? オレは辰巳琢朗のがよかったな」
「え? じゃ榎木孝明さんは? あの人絵うまいし、声も好き」
 話が逸れたので、亜矢はホッとして、これ以上むしかえさないよう、昆野に鋭い視線を送って牽制しておいた。


 ところがそんな亜矢の努力を、剣持が水の泡にしてしまった。 何のつもりか知らないが、翌日の夜八時過ぎに、亜矢が今度は真際と連れ立って駅に入ったとき、ホームの柱に寄りかかっていて、亜矢を見つけると、オッという感じで手を上げた。
 わざとやってる。 絶対に私をからかうつもりで、親しいふりをしてる。
 亜矢は内心むっとしたものの、すぐ気づいた。 こういういたずら好きなタイプは、知らん顔をすると余計かまってくるだろう。
 それで、手を上げ返してから、はっきりと呼びかけた。
「こんばんは! 今日は婚約者の宮川さんと一緒じゃないんですか?」
 一瞬おどろいた顔をした後、剣持は爽やかな声で答えた。
「ああ。 とうとう決心ついて、別れちゃった」






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