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表紙

戻れない橋  41 気の毒かも



 亜矢がうんざりした表情で横を見ると、男も気づいて目を上げた。
 すっきりした顔に、必殺の微笑みが浮かんだ。 さっきよりちょっと照れくさそうだったので、一段と可愛く見えた。
「あの、さ」
 亜矢は傲然と顎を上げて、ぶっきらぼうに応じた。
「なに?」
「八つ当たりして、ごめんな」
 相手が下手に出ると、亜矢の不機嫌もほぐれた。
「喧嘩したの?」
「うん。 婚約してるんだけど、気が合わなくて。 デートしてると、いつでもあんな感じになるんだ」
 亜矢は目をぱちぱちさせた。 喧嘩の最後を洩れ聞いただけだが、婚約中というより倦怠期の夫婦みたいだった。 夫は妻に飽き、妻は夫の関心のなさに苛立っている、そんな感じ。
「婚約者の人、まだ近くにいるかも。 探してあげたら?」
「もうとっくに帰ったよ」
 即答だった。 しかもさばさばしている。
「彼女、絶対譲らないんだ」
「でも……」
 そこで男の携帯が鳴った。 ポケットから出して、男は一瞬天を仰ぎ、それから不意に、一人分ほど離れて横を歩く亜矢の前に突き出した。
「宮川巴〔みやがわ ともえ〕?」
 男は額に皺を寄せてうなずいた。
「婚約者」
 そして耳に当てると、挨拶なしにすぐ尋ねた。
「今どこ?」
 五秒ほどの短い返事の後、男はあっさり言った。
「じゃ、一人で帰れるね」
 その後のほうが、さっきの返事よりよほど長かった。 男がまったく口を開かず、辛抱強く聞いているうちに、駅が見えてきたくらいだ。
 それでもようやく話し終わったらしく、彼は無言のまま電話を切った。 そして、ポケットに電話と手を両方突っ込むと、短く告げた。
「もう電車に乗ってる」
 亜矢は、さっきまでとは違う視線で、相手を見返した。
「一方的に文句言って、向こうから切った?」
「そう」
「いつもそんな風?」
「たいていは」
 亜矢はいったん口を開けてから、また閉じた。
 それから、やはり我慢できなくて声にした。
「婚約、断っちゃえば?」
 とたんに男が低く笑い出した。


 駅の構内に入るまでに、二人はすっかり打ち解けて話をしていた。
 彼の名前は剣持保〔けんもち たもつ〕といった。
「なんだか早口言葉みたいな名前だろ?」
 二度繰り返して言ってみて、亜矢も納得した。
「そういえば」
「君は?」
「古藤亜矢」
「なんかクラシックな響き。 いい名前」
 そうかな。 たしかに古いという字が入るけど。
「ありがとう。 初めて言われた」
「会社帰り?」
「そう。 剣持さんたちはデートだよね」
「そうだけど、職場は浦和だからすぐ近く」
 たまたま帰る方向も一緒だった。 二人は東大宮駅までの短い間だったが、楽しく話して過ごした。






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