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戻れない橋
40 店にいた男
その日、亜矢は特に忙しかった。 それに客がワークルームに二組も来て応対に追われ、他にも雑用があって仕事を中断された。
こういうときは、うっかりミスをする危険がある。 だから注文を仕上げた後、もう一度細かく点検した。
それで、いっそう帰りが遅れた。 昆野が友達と待ち合わせだと言って先に帰宅し、真際のほうは顧客と夕食に出て、ふと気づくと他の社員も次々と家路についていたため、久しぶりに一人で建物を出ることになった。
空はとっくに暗くなっていたが、街は昼間のように明るいし、もう襲われる恐怖も薄らいでいた。 あれ以来、悪い二人組はどこにも見かけない。 仕返しをされる心配はないようだった。
それで亜矢は、自分のペースでぶらぶら歩きながら、しゃれたショーウィンドウを眺めて楽しんだ。 給料が入ったばかりで、懐があたたかい。 あの綺麗な色のマフラー、買っちゃおうかな。
ふと衝動買いがしたくなって、柔らかい照明が溢れる店に入ると、先客が二人いて、しかも言い争っていた。
「じゃ、こっちがいいって?」
「そうじゃない。 品物に文句言ってるんじゃないのよ。 うるさくなったら何か買ってやればいいっていう、そういう考え方が嫌なの」
「じゃ、やめよう。 要らないんなら、早く食べに行こう。 腹すいた」
「もう! 自分の気持ちばっかり大事にして! 私、帰る」
「ここまで来て? 何言ってるんだ」
「知らないわよ。 みんなそっちが悪いんじゃない」
フン、といった感じで、結構美人の女性はブーツのヒールをきしませながら向きを変え、さっさと店を出て行った。
男性は後を追わなかった。 彼女の後姿をちらっと見た後、店内を見回して亜矢に目を留めた。
なに?
選り分けたマフラーに触れたまま、亜矢が固まっていると、男はつかつかと近づいてきて、そのマフラーと同じものを陳列棚から抜き、カードで会計を済ませた。
なんだ?
亜矢が状況を掴めないでいるうちに、若い男は出入り口に向かう途上、買ったばかりの品が入った紙袋を亜矢に差し出した。
ええーっ?
とっさに亜矢は後ずさりして、商品の載ったワゴンを倒しそうになった。
「……はい?」
「これ、買う予定だったんでしょ? どうぞ」
「はあ?」
いったいこの人、何者?
「そんな! 受け取れませんっ」
力を込めて言うと、相手はめげずにニコッと笑った。
亜矢は顎がガクッとなりそうになった。
コイツ、この笑顔でさっきの子を落としたんだな。
それはまさに、タラシの微笑みだった。
「じゃ、外に出ましょう」
「ヤです」
瞬殺で言い返せたときは、胸がスッとした。 しかし、男はかすったほども気にしなかった。
「外で清算しましょうってこと。 ちゃんと包んであるし、汚れてもないんだから、別にいいでしょ? 僕はこんなもの要らないし」
ますます妙な成り行きになってきた。
「そんなら、買わなきゃいいじゃない」
むくれて、言葉がぞんざいになった。 同時に男の笑いもくだけたものになった。
「こういう店ってさ、買わないで出てくとカッコ悪い」
「私はまだ選んでたんだから」
「嘘だね。 さっきからそればっかり見てたくせに」
おや、あんな口喧嘩しながら、私にも目つけてたのか?
気づくと、カウンターの後ろで女店員が二人、面白そうな目つきでこっちをうかがっている。 亜矢は胸をふくらませて男を睨んだ。
「いいわよ。 買ったげる。 いくらだった?」
「四二八十円」
亜矢はバッグから財布を出し、わざと丁寧に札と小銭を数えて、きっちりの金額を渡した。
「はい」
「どうも」
男が軽く頭を下げるのを見ないふりして、亜矢は急ぎ足で店を出た。
十メートルほど行ったところで、ふと気づいた。 さっきの男が少し間を置いて、歩道の道路側を速度を合わせて歩いていた。
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