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戻れない橋  37 熱が入って



 間もなく季節は本格的な秋に入った。
 亜矢と五十嵐代表は、すっかり元の上司と部員の関係に戻っていた。 突然吸い寄せられるように抱き合い、唇を重ねてしまったあの夕方以来、数日間はたまに顔を合わせてもぎこちなかったが、やがてお互いに慣れ、また努力して、すぐ普通に会話できるようになった。


 それでも五十嵐を見るたびに、亜矢はあの短い時間を思い出した。 あまりに突発的で、現実とは思えないひとときだった。 でもあれは、確かにあったことだったのだ。
 代表は私の何に引かれたんだろう。
 想像してみるのは、密かな楽しい時間だった。
 彼の嫌いなタイプではないと思う。 興味のない女にあんな激しいキスをするはずがない。
 ただ、好きなタイプともいえないな。 朝早く肩を抱いて慰めていた『ルリちゃん』と私は、全然違うもの。
 最後はいつもそういう結論になって、心がしぼむ。 まあ、虚しい望みをふくらませるよりは健全かもしれない。 代表の驚き方からして、彼が他の女性社員と手軽に付き合ったりしてないのは確かなようだし。
 あのびびり方はすごかった。 後ろに飛んで、転ぶかと思った。 まるで初キスをした中学生みたいだったけど、キスそのものは初めてどころじゃなく……。
 不思議な人だ、と改めて感じた。




 会社の業績は順調だった。 五十嵐代表が仕事にのめりこみすぎて、中規模会社のキャンペーン一式を獲得してしまい、あやうく期日に間に合わなくなりそうになったぐらいだ。
 社員たちは一致協力し、交代で残業して急場を乗り切った。 亜矢も四日間にわたって、夜の九時十時まで先輩たちと共に働いた。
 締め切り半日前に企画は仕上がり、五十嵐が車に飛び乗って、顧客の承認を取り付けに行った。
 その後、思ったよりずっと早く、電話が入った。 途中経過をまめに知らせて確認を取っていた誠実さが効を奏して、ほぼクレームなし。 ごく小さな変更だけで、労苦のすべてが認められたという、五十嵐からの結果報告だった。
 たちまちワークルームに歓声が上がり、お茶、コーヒー、ノンアルコール飲料など、手当たり次第に乾杯の音頭が取られた。
 高畠が疲れた目をこすって、どら声を張り上げた。
「よく頑張ったよな〜、俺達! 今度、みんなで五十嵐さんにおごってもらおうぜ!」
「うん、それいい!」
 すぐに真際が賛成し、周りも口々に好きな料理を言いたて始めた。
「オレ中華」
「優雅に懐石とか、どう?」
「いいけど、順番に料理が出てきてかったるいよ」
「俗物だな、おまえ」
「やっぱステーキだろう」
「いつもの食堂で、ワンランク高い定食でいいよ」
「だんだん望みが低くなるな」
「いいじゃない、肩こらなくて」
「代表のポッケ空っぽにしても、いいことないからな」
「給料上げしてくれるって言ってるし。 労使交渉なしでだぜ。 いい社長だよ」
「社長って言うな。 怒られるぜ」
「なんで怒るんだろう。 文句なし社長じゃんか」
 新米の亜矢は、にこにこしながら聞いているだけだったが、そのときは思わず口を出しそうになった。
 それは代表が二人いるから。 五十嵐さんは、望月さんと二人で立ち上げた会社という姿勢を大事にしているんです。
 そこで、はっと気づいた。
 いやだ私。 なんで五十嵐代表の心がわかるみたいに思ってるの?







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