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表紙

戻れない橋  36 不幸な結婚



 その日、五十嵐代表はワークルームに顔を見せなかった。
 ロック・クライミングをしていた日に受注したホテルのロビー装飾に頭を絞っているとかで、ほぼ一日中自室で作業するため、こもり切りだった。
 亜矢は何となく肩透かしをくった気分だったが、気まずい顔合わせをしないですんで、ほっとした。 先生から呼び出しを食うのを恐れていたのが、延期されたような感じだった。


 他の社員は、それぞれ各自の作業にいそしんだ。 望月は新しいグループを組み、亜矢は真際の手伝いをして、午後には彼女と鳩ヶ谷市まで出かけた。
 真際は運転が上手なので、亜矢を乗せて連れて行ってくれた。 車は軽ではなく、上品な紺色のフィットだった。
「いい車ですね〜」
「最近買い換えたの。 子供の送り迎えにもいいのよ。 友達やその子のお母さんたちを送ることがあるし」
「うちも幼稚園のとき、母が送り迎えしてくれたなぁ。 白のカローラで」
「ああ、兄の車もカローラだった。 今はプリウス」
「トヨタつながりで」
「そうね」
 のんびり話しているうちに、亜矢はさりげなく訊きたい話題に移った。
「五十嵐代表のお姉さん、ケーキ作りがお上手ですね」
「ああ、千早〔ちはや〕さんね」
 直線道路なので、幾つか先の信号まで見通しながら、真際は軽く答えた。
「まだ逢ったことなかった?」
「はい」
「彼女も絵うまいの。 代表と違ってメルヘン・タッチでね。 今は暇なんだから一緒に仕事しないかって誘ったことあるんだけど、プロは無理だって断られちゃった。 そんなことないのにね」
「今は暇、ですか?」
「あ」
 真際の視線が、ふと泳いだ。
「えぇと、ご主人と別れたんで」
 ああ……。
 最近離婚が多いというが、亜矢の近くにいる人々はたいてい円満なので、これまで実感したことはなかった。
 離婚か〜。
 真際はうまく青信号のうちに交差点を渡りきって、なめらかに進んだ。
「千早さんが悪いんじゃないのよ。 ダンナが他の女のところへ行ったきり、戻ってこないの」
 それはひどい。
 亜矢は義憤を感じた。
「とんでもないですね〜」
「だよね〜。 あんなやさしくて親切な奥さんに、何の不満があるのかと思うけど、人の気持ちはわからないから」
 真際は千早という人が好きらしく、口をとがらせて怒っていた。
「正式に別れたんですか?」
「今んところは、まだ夫婦らしい。 それはしたくないんじゃない? 妻の意地で」
 私なら離婚届ぶつけてやる。
 亜矢はお腹に力を入れて、そう誓った。
 結局別れるような男と結婚したくはないけれど、交通事故みたいなもので、自分だってそういう運命になってしまうかもしれないから。






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