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戻れない橋  35 遅いお詫び



 その夜、大雨の中を家に帰り着いた亜矢は、タオル、タオルと騒ぐ母に肩や背中を拭いてもらいながら、やはり親には夕方のことを黙っていようと決心した。
 最近、隠し事が多い。 学生時代は家族に何でも打明けていたのに。 卒業後たった半年で、秘密だらけの汚れた大人になってしまったような気がした。


 翌日は晴れたが、昨日の低気圧の余波がまだ残っていて、風が強かった。
 亜矢は、通勤のバスを降りるとすぐ、会社の建物を見上げた。 複雑な気持ちがする。 どんな顔をして代表に会えばいいのか。 キスぐらい大げさに考えないようにしようと、昨夜から何度も自分に言い聞かせているものの、根が正直な亜矢は、表情に出さない自信がなかった。
 それでも仕事は仕事。 気分を切り替えて、きりっとした顔を作ってから、入り口から入ろうとしたとたん、横から声をかけられた。
「古藤さん」
 聞き覚えのある声だった。 しかし、前とちがって妙に遠慮がちだ。 亜矢は足を止め、じろっと相手を眺めた。
 亜矢が口を開く前に、関川晃路は慌てて頭を下げた。
「ごめん!」
 ひどく恐縮して、体まで小さく見える。 亜矢は少し優しい気持ちになった。
「晃路さんのせいじゃないよ」
「でも、あんなのと友達だったのは事実だから。 あ、もう奴らとは絶交した。 賢太にもボロクソに言われたし」
「警察、呼んでくれたのね?」
 そう訊かれて、晃路はあやふやな笑顔になった。
「あ、見てたんだ? でも、いなかったよね。 どっかの男が助けて、二人でどっか行っちゃったんだって?」
「ああ……、その人まで巻き込みたくなかったから」
「知り合い?」
「会社の人」
「なんだ、そうか」
 晃路は額をぽりぽりと掻いた。
「なあ、奴ら訴えたいなら、協力するよ」
「ありがとう。 でも、実害なかったから、いい」
「そうか。 遅くなっちゃったけど、どうしてもあやまりたくて。 これから仕事だろ?」
「そう」
「じゃ、がんばって。 あ、俺達のこと嫌いにならないでな」
 亜矢は微笑んでうなずいた。


 思いがけず晃路が詫びに来たことで、亜矢は気が紛れた。 それで会社に入ったときも、冷静に受付の原と挨拶を交わすことができた。
「おはようございます! 原さん、今朝は早いね〜」
「コドちゃんはいつも早い! ねえ、今日は特別なケーキがあるんよ〜。 五十嵐代表のお姉さんからの差し入れ! もうめちゃめちゃおいしいの。 プロ顔負け、っていうか、お菓子屋さん開けるぐらいの腕なんだけどね」
 そう説明しながら、原は薄紙に包まれた直方体の塊を二つ、プラスチックの小さなトレイに載せて、亜矢に差し出した。
「今食べる? それともデザートまで待つ? 食べちゃったほうがいいよ〜。 なくなったら、内緒であと二つあげる」
 時計を見上げると、始業時間まであと二十五分あった。 これならちょっとお茶しても大丈夫。
 亜矢はタイムカードを入れた後、すぐ戻ってきて、原なずなとティータイムを楽しんだ。
 包みのうち、最初に開けたのは、苺を花のように飾ったショートケーキだった。 見るからに本格的で、クリームもスポンジ台もとろけるようにうまい。 空腹ではなかったのに、亜矢はあっという間に食べてしまった。
「凄いね〜、代表のお姉さん」
「とってもいい人。 やさしくてね。 ときどきこうやって差し入れしてくれるの。 今朝来たら、ケーキ一杯入った袋がドアノブにかけてあった」
 そこで原は、ちょっと考えた。
「いつ来たんだろ。 今朝じゃ早すぎるから、昨日かな?」






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