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戻れない橋  34 衝動に負け



 腕を捕まれているわけではない。 当然、抱きしめられてもいなかった。
 ただ屈んで、唇を合わせているだけのキス。
 磁石で動く男の子と女の子のペア人形のような体勢だった。
 だから、亜矢は避けようと思えばいつでも体を引けた。 でも逆に、目がくらんだまま顔を上向けて、彼を手探りした。 そして、さっきまで寄りかかっていた腕を探し当てると、袖を握って身を預けた。
 一瞬離れた唇が、すぐまた熱く重なった。 今度は本格的な口づけになり、腕が太いロープのように亜矢に巻きついて引き寄せた。 首筋の後に当てられた手のひらが、しっかりと亜矢の頭を支えた。


 どのくらい時間が経ったかわからない。
 たぶん五分と過ぎていなかっただろうが、むさぼるようなキスが終わったとき、亜矢はどっと疲れて、足元がかすかに震え出していた。
 五十嵐の背後にあった椅子が、ガタンと音を立てて横滑りした。 彼が息を呑んで手を離し、一気に後ずさりしたせいだった。
 まだ暗いままの室内でも、彼が狼狽〔ろうばい〕しているのがはっきりと伝わってきた。
「ごめん……! おれ、どうかしてる」
 不意に一人にされた亜矢は、バランスを崩しかけてデスクに掴まった。
「五十嵐さん……?」
「こんなこと、するつもりじゃなかった。 信じてくれ」
「あの」
「誓って言う。 おれは社員を誘惑するクソおやじじゃない」
「わかってます」
 こんなときなのに、スマートな五十嵐が自分をクソおやじに例えたのがおかしくて、亜矢は笑いそうになった。
 五十嵐はもう一歩下がり、落ち着こうとした。
「もう二度とこんなことはしない。 すまなかった。 雨が……雨が本降りになる前に、帰ったほうがいい」
「はい、失礼します」
 他に答えようがなかった。 亜矢はスマホ探索をあきらめ、バッグを手に取ってぎこちなく一礼すると、ドアのほうに行きかけた。
 そのとき、五十嵐が急いで追ってくる気配がした。
 呼び止めてくれるのだろうか。
 胸が一瞬ときめいて、亜矢は素早く振り向いた。
 その目の前に、忘れ物のスマホがスッと差し出された。
「これ、さっきコピーの傍で見つけた。 君のじゃないかと」
 あ。
「まだいたら渡そうと思って、下まで行こうとしてたんだ。 そしたら急に君が戻ってきたから」
 それで驚いた顔をしてたのか。
 なぜすぐ声をかけてくれなかったのか、わからなかったが、亜矢は礼を言って電話を受け取った。
「すみません。 これ探してたんです」
「……じゃ」
「お先に失礼します」
 ぺこんと頭を下げて、亜矢は今度こそドアを出た。 混乱と失望感が混じり合い、足がもつれた。


 風が強まった街路に出たとき、ようやく雨粒がぽつぽつとアスファルトに点を描きはじめた。 すぐ来たバスに乗り込み、座席に座った後、亜矢はそっと唇に指を当ててみた。
 そして、祭りの後の寂しさに似た気持ちで思った。
──すごかった〜。 心臓ばくばくで、体中熱くなって……
 こんなの初めて。 想像とちがってた。 思ったよりずっと、ずっとすごかった!
 経験できて、よかった。 五十嵐さんはただの弾みだったんだろうけど──


 その頃、五十嵐は自分の部屋の窓辺に立ち、近くの停留所からバスに乗る亜矢をじっと見つめていた。
 車が去っていくと、彼は壁に立てかけた白地のカンバスを持ち上げ、何も描いていない木枠つきの画板を、いきなり椅子の背に叩きつけて、ぐしゃぐしゃにつぶしてしまった。






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