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戻れない橋  33 雷雨の前に



 九月の末、いくらか涼しくなったものの、まだ盛夏の名残りは大気や地面に根を張っていた。
 その水曜日は、午前中カラッと晴れていたのに、昼前から急速に雲が広がり、五時頃には風が強くなって、遠雷が聞こえはじめていた。
 仕事が一段落ついたため、珍しく全員が定時に帰れることになった。 今日の夕立は豪雨になるという予報もあり、たいていの社員は寄り道をしないで急いで帰宅するつもりで、早足で出ていった。
 もちろん亜矢も、その中にいた。 だがそんなときに限って不運にも、忘れ物に気づいた。
「うわー」
 慌ててエレベーターに駆け込む背中に、電車の方向が同じ昆野〔こんの〕の声が飛んだ。
「電車一台分だけ待ってるから、早く来な〜」
「はい!」
 振り向いて答えたとたん、エレベーターの扉が閉まった。 昆野とは年が近いから、帰りが一緒になると、よく話をする。 会社にいる二十代前半の女子は、たまたま亜矢と受付の原なずなだけだ。 それで、社での世間話相手は主に原と真際かれん、帰り道では昆野とテッケンが多かった。 そして昆野は寂しがり屋で、一人で帰るのを嫌がった。


 スマホ、スマホと……。
 ワークルームに駆け込み、デスク回りを探し回っていると、灯りを消した室内がどんどん暗くなって、周囲が見づらくなってきた。
 しかたなくスイッチを入れに行ったとき、奥の部屋のドアがカチッと音を立てて、五十嵐代表が出てきた。
 二人とも、驚いて動きを止めた。 電気をつける前で、まだ部屋は薄暗い。 二人が一瞬反応に困っていると、そこへ前触れも何もなく、いきなり眩い稲妻が走った。
 次いですぐ、割れるような雷鳴が襲った。 反射的に亜矢は耳をふさいだ。 でももう鳴ってしまった後だから、鼓膜がじんじんする。 縮こまった亜矢の横に、代表が素早くやってきて、顔をのぞきこむようにして話しかけた。
 よく聞き取れない。 まだ耳を覆っているのに気づき、亜矢は手を離した。
「え?」
「怖いか?」
 怖くはなかった。 ただ音が大きすぎただけ。
 そう言おうと思ったが、なぜか口が動かなかった。
 空でまた強い光が走り、雷が轟いた。 すぐ上を大きな雷雲が通過しているらしい。
 その瞬間、本能的に亜矢は女の手管を使った。 怖いふりをして抱きつくまでの勇気はなかったが、思い切って代表に身を寄せて、ぴたりとくっついてみた。
 すごくいい気持ちだった。 まるで酔ったように、ゆらゆらと目まいがした。
 本当に酔ったのかもしれない。 服越しに伝わってくる彼の温かみ、体を包む麻のシャツの匂いに。
 五十嵐は動かなかった。 まっすぐな樹のように、ただ立っていた。
 残念ながら、次の雷鳴は急に小さくなった。 そして、その次は更に遠ざかった。
 ひとつ息を吸ってから、そろそろ離れなきゃ、と亜矢は思った。 仕方なく姿勢を立て直し、代表の二の腕に押し当てていた顔を起こすと、頬がひやっとした。
 気温は二十度を越えているはずだ。 寒いわけがないのに。
「すみません。 あの、ありがとうございまし……」
 取り繕おうとした言葉は、最後まで続かなかった。 途中で目の前が、すっと降りてきた人影で覆われ、唇に火のようなものが重なって、柔らかくふさがれた。







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