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戻れない橋
32 社の雰囲気
だが、亜矢の心配はすぐ消えた。 仕事を取って帰ってきた五十嵐はいつもの顔色を取り戻していて、健康そのものに見えるし、周囲の先輩たちもくったくがなく、早くも新しい仕事の割り振りを始めていた。
午後の三時過ぎ、浜松に出張していた前原という社員が、お土産を下げて帰社した。
「ホームに入った後で気づいて、うなぎパイだけになっちゃったんだけど」
「いいよ、ちょうどおやつの時間だし。 さっそくいただきまーす」
常々、デザインは肉体労働だと主張している高畠が、工事の人と同じように午後休みを取る気まんまんで、箱をさっさと開いた。
面倒見のいい真際が小袋を数えて周りに配り、亜矢にも分けてくれた。
「あ、すみません。 今お茶入れます」
「僕は紅茶お願い」
「サブレに紅茶?」
高畠がまぜかえすと、紅茶を頼んだ顎鬚の昆野〔こんの〕青年が、菓子の袋を開けながら言い返した。
「砂糖入れないで飲むんです。 英国式」
「じゃ、私もそれにしようかな」
と言いながら、真際がついてきて、さりげなく亜矢を助けた。
「紅茶は私が入れるからね」
「ありがとうございます」
亜矢が笑顔になると、真際はしみじみと言った。
「いい笑い顔だよね〜。 惜しみなく与える、っていうのかな。 コドちゃんが入社してから、この部屋明るくなった」
「え? いやそんな」
「ほんとよ。 お世辞じゃなくて。 前はもっと口論多かったんだから。 たいていは仕事のことだけどね」
「はあ。 私がお子ちゃまだから、怖がらせちゃいけないとか、ですか」
真際はくすくす笑った。
「やだ、まだ根に持ってるの〜? 河内くん、突然あんなこと言われて、あせっちゃったのよ」
それから、思いついたように付け加えた。
「五十嵐さんも早とちりよね〜。 会社が軌道に乗って、そろそろ新人から育てようって張り切ったのに、横取りされたと思って怒ったんかしら」
怒った?
確かに、あのときの代表の目は怖かった。 それを言うなら、駅前で不良を殴り倒したときの視線だって、相手が震え上がる迫力があった。
五十嵐代表には怒りのマグマがある。
あのときから、亜矢はそう感じ取っていた。 静かできちんとしていて上品なのは、もしかすると仮の姿。 逆らうと、実は非常に怖そうだった。
でもなぜか、亜矢は彼におびえなかった。 彼が河内と自分を交互に睨みつけたときも、普通に見返していた。 そして、彼に微笑みかけたいと、胸の中で願っていた。
──誰も好きになんかなりませんよ、私が一番好きなのは五十嵐さんです──
いつか、そう言える日が来るだろうか。
半人前じゃなく、一通りの仕事ができるようになって、社の戦力になれたら、たとえ見込みがなくても、ちゃんと言いたい。
戦わないで負けるんじゃ、情けないもの。
あーあ、あと何年かかるだろう。
それまで、彼が売れ残っていてくれるかな。
自分で自分の考えに可笑しくなって、亜矢は苦笑まじりの笑顔になった。
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