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戻れない橋
31 契約成立で
五十嵐が装着したロープに手をかけようとして下を向いたとき、動いた彼の視線を捉えて、亜矢は手を振った。
ちらちら動く白いものに気づいて顔を上げた五十嵐は、亜矢を見つけて一瞬固まった。 明らかに驚いた顔をしたが、すぐ普段の表情に戻って、するするとロープを使って降りてきた。
「古藤さん、どうした?」
近づいてきた五十嵐は、黒のシャツとハーフパンツ姿で、いつもより更に大きく見えた。 体の釣り合いがいいため、普段は胸板の厚さが服に隠れてわかりにくかったらしい。
ちょっと圧倒されながらも、亜矢はてきぱきと用件を述べた。
「すみません。 急に大きな依頼が入って、どうしても代表とお話したいとクライアントが言っておられるそうなので」
相手の名前と電話番号を記したメモを手渡すと、代表はすぐ仕事の顔になり、うなずいて携帯を取りに戻りながら、言い残した。
「ご苦労様。 先に帰ってランチ食べててください」
「はい。 じゃ、お先に失礼します」
軽く一礼して部屋を出ようとしたとき、後ろで男のがらがら声が聞こえた。
「あれ、おたくの人? 若いのに社員教育が行き届いてるねえ。 コツは何?」
褒められた。
ちょっと嬉しくなって、亜矢はドアをゆっくり閉めた。 その前に、代表の返事が聞こえた。
「あの人は特別。 育ちがいいんですよ」
エレベーターの中で、亜矢はにんまりしながら胸をさすった。 他に乗っている人がいたら、バカみたいと思われたかもしれない。 幸い、一人だったが。
──育ちがいいって、私、そう思われてるの?──
両親に聞かせたら、きっと大喜びだ。 特にお嬢さんとして育てられた覚えはないが、礼儀作法だけはきちんと教わった。
外に出てもしばらく浮かれていてから、亜矢はだんだん我に返った。
代表は社交上手な人だ。 当りさわりのない答えを返しただけかもしれない。 いわゆる社交辞令ってやつ?
頭は冷静になったものの、嬉しさは残った。 ともかく、自分の応答は間違っていなかったのだ。 五十嵐代表も認めてくれたにちがいない。
頼まれた弁当やサンドイッチ類を急いで買い集めて、亜矢はいそいそと会社に戻った。
亜矢自身は、母と一緒に作った手作り弁当を持ってきていた。 外食はどうしても野菜が足りないと親が言うので、なるほどと亜矢も思い、夏の初めから作るようにしていた。
お茶を入れ、真際や相澤テッケンと話しながら食べていると、五十嵐が帰ってきた。 シャワーを使って、すっきりと涼しげな顔をしていた。
「さっきは連絡ありがとう。 ハイロイヤル・ホテルの仕事、まとまりました」
おぉ、という歓声と拍手が沸いた。 これでまた、会社の名前が上がり、収入も増える。 もっと広い作業場を欲しがっている高畠や望月のために、隣の空きオフィスを借りられる日も近いかもしれない。
みんな喜んでいた。 だが、亜矢の心にはかすかな不安がきざしていた。
岩登りをしていた代表の顔には、疲れがにじんでいるように見えた。 激しい運動をしているのに興奮が感じられず、どこか寂しげで、いつもの彼とはちがっていた。
見せないようにしてるけど、ほんとは過労なんじゃないかな。
そう思っただけで、亜矢は不安になった。 社員みんながわかっているように、この会社は五十嵐代表で成り立っている。 彼が万一倒れてしまったら、こんな素敵なハーフムーン社が空中分解してしまうかもしれない!
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