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戻れない橋  30 消えた代表



 その翌日、五十嵐代表が行方不明になった。
 といっても、珍しく携帯がつながらなくなっただけで、誘拐されたとか蒸発したということではない。 でもハーフムーン社は彼がいないと、とたんに歯車が円滑に回らなくなるという弱点があった。


 即決しなければならない受注用件が、急に入って、ベテランの坂内〔さかうち〕が立ち往生し、真際に助けを求めに来た。
「大口なんだよ。 春日部ハイロイヤル・ホテルの内装の目玉に、壁画を描いてほしいっていうんだけどね。 どうしても五十嵐さんのタッチがほしいって、オーナーさんが言うんだそうだ」
「急いでるんですか?」
「そう。 他社が競合してて、猛烈に売り込んでるらしいよ。 そっちはタイルを張ると言ってるらしい。 オーナーひとりで頑張って、こっちへ話を入れてきたんで、早くしないと押し切られちゃうかも」
 真際は額に一本縦皺を入れて考え込んだ後、ぱっと顔を輝かせて手を打った。
「そうだ! あれだわ」
「あれ?」
「はい、あれやってるときは、たしか携帯外すんですよ。 鳴っても出らんないから」
「は?」
 話がわからなくて首をかしげている坂内をしりめに、真際はちょうどバッグを肩にかけて出ようとしていた亜矢を呼び止めた。
「コドちゃん! ちょっと待って」
 ドアの前で振り返った亜矢を、真際は走り書きしたメモを持って追いかけた。
「ランチ買出しにいくんでしょ?」
「はい」
「じゃ、ついでにここに寄ってみて。 たぶん代表がいると思う。 いたら掴まえて、この番号にすぐ電話お願いしますって伝えてください」
「はあ」
「この第三田中ビルって、出て右に行って、五つ目の建物だから、すぐ行ける。 四階に上がってね」
「はい」
 右に行って五つ目の四階。
 何の建物だろ。
 亜矢は首をかしげつつ、急ぎ足で仕事場を出た。


 九月もそろそろ終わりだというのに、薄い雲がかかっているわりには蒸し暑い昼下がりだった。
 亜矢は丁寧に建物を数えながら歩き、茶色にグリーンの窓枠がついたビルにたどり着いた。
 大きなガラスの自動ドアの横に、しゃれた看板が立っていた。
「ナトリ・トレーニングクラブ」
 あ、わかった。 きっと筋トレのジムなんだ。
 亜矢は納得し、中に入って愛想のいい受付に、四階まで行っていいか尋ねた。
「会員じゃないんですが、会いたい人がいるので」
「はいどうぞ。 ご見学自由ですよ。 こちらのパンフレットに、各階施設についてのご案内がありますので、参考になさってください。 お嬢さんもご入会いかがですか?」
「あ、どうもありがとうございます」
 にこっと微笑み合って、亜矢は銀色の線がシュールに描かれたエレベーターに向かった。


 四階は大きな二つの部屋に分かれているらしかった。
「ボクシングとロック・クライミング……」
 いったいどっちにいるんだろう。 昼前から殴り合って、顔が腫れたら大変だから、たぶんクライミングのほうだ。
 亜矢は見当をつけて、左側のドアをそっと押し開けた。
 すると、巨大な壁一面に、さまざまな色をした石が不規則に埋まっている光景が、目に飛び込んできた。
 三面に広がるその壁のあちこちに、人が登っている。 男性がほとんどだが、迷彩柄のタンクトップを着た女性も一人いて、軽々と石から石へ足を掛けて体を引き揚げていた。
 亜矢は目をこらし、五十嵐代表がいないか捜した。 すると、真ん前の壁のてっぺん近くに、バンダナを頭に巻いた彼が、足を強く踏まえて、今しも降りようと身構えているのがわかった。






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