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戻れない橋  29 婚約祝いに



 いつもの流れるような足さばきで、五十嵐はデスクを縫って、食事中の社員たちが群れている大きい作業台に向かった。
「楽しそうだね」
 まだ笑いを残したまま、河内が代表を見上げて、ちょっと恥ずかしそうに報告した。
「実は僕、婚約しました」
 五十嵐の足が、ぴたっと止まった。 視線が稲妻のように、河内と亜矢を往復した。
「婚約? 古藤さんと?」


 たちまち、ワークルーム中が静まり返った。 他の仕事にいそしんでいた社員たちまで作業を止め、いっせいに『望月組』を振り返った。
 河内は、あっけに取られて口をパカンと開いた後、失礼なことに吹き出した。
「えっ? コドちゃんと? そんな〜! なんで僕がお子ちゃまと婚約しなきゃいけないんですか」
 すぐ大きな室内に、陽気な笑いが伝染した。 亜矢は頬をふくらませて河内を睨み、仕返しにしゃべってやった。
「お相手は小学校の同級生ですって。 河内おじさんとお似合いですね」
「何がおじさんだよ。 花の二十七歳だぞ。 コドちゃんが若すぎるんだ」
 気心の知れた二人が軽くジャブを交わしていると、コピー作業を終えた真際が近づいてきて、真っ先に祝福した。
「おめでとうございます、河内くん。 ますます幸せになってね」
 それに続いて、次々と祝福の言葉が飛び、河内はいっそう照れた。
「いや〜、まだ婚約指輪も買ってないんですよ。 月末に二人で行くつもりですけど、プロポーズがうまくいったら、やたら人に話したくなっちゃって」
「うわ、誰かエアコン強くして」
 先輩社員の高畠が、すっとんきょうな声で呼ばわった。


 騒ぎの中、五十嵐は改めて河内に歩み寄って、手を差し出した。
「本当におめでとう。 式に協力できることがあったら、何でも言ってください」
 河内は感激した面持ちで、急いで立ち上がり、丁重に握手した。
「ありがとうございます! 沼津で挙式すると思うんですが、お招きしてかまいませんか?」
「かまわないどころか、ぜひ行きたいです。 会社を開いて初めての結婚だし、めでたい限り」
 さっと身をひるがえすと、五十嵐はドアを開けたまま廊下に出たと思うと、両手に瓶を持って、すぐ引き返してきた。
「皆さん、乾杯しましょう! 車の人とアルコールのだめな人は、冷蔵庫から自由に好きなもの出して」
「はい!」
「おつまみ、いいですか?」
「そっちの棚に置いてあるわよ〜」
 最近導入したお菓子の小さな販売箱や、冷蔵庫のパック入り惣菜などが動員され、ちょっとしたパーティーになった。


 半時間ほどでお祝い会を終えた後、皆なごやかに作業に戻った。
「いいデザートになったね」
 真際が楽しそうに河内に話しかけている。 河内は恐縮した表情で、それでも嬉しそうに上気していた。
「すごい良い思い出になるなあ。 智美〔ともみ〕にも話さなくちゃ。 みんな祝福してくれたって」


 亜矢も、初めてシェリーとかいうお酒をちょっぴり飲んで、ふわっとした気分になっていた。
 だが、酔うまではいかなかったので、意外な事実を見てとる余裕はあった。
 なんと、言い出しっぺの五十嵐代表は、とっておきの上等な酒瓶を二本も寄付したにもかかわらず、自分はまったく飲まなかったのだ。
 彼が口にしたのは、ノンアルコールの缶だけだった。
 それにしても、と、下書きの紙をまとめながら、亜矢は首をひねった。 さっき自分の部屋を出てきて、河内と私を見たとき、代表の目は何であんなに鋭かったんだろう。







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