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戻れない橋  27 夜道の幸せ



 エレベーターの中で、亜矢は厚く五十嵐に礼を述べた。 代表はすぐ手を振って、簡単に片付けた。
「クライアントを見送ってたら、君が闘ってるのが見えたんで、急いで走っていったんだ。 間に合ってよかった」


 その後、歩き始めてから最初の脇道を渡るところで、五十嵐が不意に口を切った。
「昨夜の奴らの車、番号見といたから、警察に話したよ」
 亜矢の頭が上がる前に、彼は素早く言葉を継いだ。
「古藤さんの名前は出してない。 知り合いの刑事に言っただけ。 すぐに調べて、マークすると約束してくれた」
 代表の交際範囲は、とても広いらしい。 亜矢は胸をなでおろすと同時に、五十嵐の手際のよさに感心した。
 気がつくと、彼が頭をかしげるようにして、こっちを見ていた。
「あいつらと顔見知り?」
「いえ、一度遠くから見たことがあるだけです。 昨夜は関川さんとたまたま道で逢って、駅まで歩いてて。 関川さんって、あのとき警察を呼んできた人ですけど」
 それから亜矢は、関川兄弟との出会いを簡単に語った。
「この近所でバイトしてるみたいです。 車で来た二人は、関川さんの知り合いで」
 代表は厳しい表情になった。
「その関川って人はともかく、友達は本物のワルだ」
「はい」
 亜矢は素直に認めた。 昨夜は本当に危険だったのだ。 関川兄弟とも、これからは距離を置いたほうがいいだろう。
 代表は、それ以上お説教くさいことは言わず、また黙って静かに足を運んだ。 無心に進んでいるように見えたが、実は亜矢の歩幅に合わせてゆっくり歩いていた。
 亜矢は彼に何か話しかけたかった。 しかし、こういうときに限って思いつかない。 もちろん、ただ無言で並んでいるだけで楽しいので、彼の軽い靴音を聞きながら、歩幅を乱さないよう気をつけていた。
 二人っきりになれることなんて、めったにない。 この短い時間を、目一杯楽しみたかった。


 四つ角を曲がり、遠くに駅が見えてきたところで、再び五十嵐が口を開いた。
「がんばり屋なんだ、古藤さんは」
「え? あ、はい、ありがとうございます」
 褒められた! わーっと頭に血が上って、亜矢は言葉がもつれかけた。
「望月が古藤さんのことを好きになっちゃって、びっくりした。 あの男は学生時代から、女子には見向きもしなかったんだから」
「はあ……」
 ──なんで望月さんに振るの?──
 望月は亜矢にとって、五十嵐に劣らず雲の上の人だった。 ただ、雲の意味が違うが。 望月はすばらしい芸術家であると同時に、いつもどこかをただよっていて、心ここにあらず状態だった。
「望月さんが私に気づいてられたのが、びっくりです」
 亜矢が正直に言うと、五十嵐は可笑しさをこらえるように口を結んだ。
「君の作風がビビッと来たんだって。 彼が気に入ってくれて、僕も嬉しかった。 ここ三年で初めて採用した新卒だから。 目が高いって、僕まで褒められた」
 うっほーい!
 望月に認められたのも嬉しいが、五十嵐代表が喜んでいるのが幸せで、亜矢はピョンピョン飛びたくなった。 実際には、そんなことできなかったけれど。


 駅の階段にたどり着いたとき、亜矢は本気でがっかりした。 代表は自分の作業がなかなか進まないほど交渉や接待に追われていて、最近は特に社内にいないことが多い。 こうやって肩を並べて歩ける時間は、とても貴重だったのだ。
「今夜はありがとうございました。 昨夜のことも本当にありがとうございます」
「もういいって」
 彼は穏やかに言い、階段の上に高台が広がった美しい駅を見上げた。
「関川って人は、古藤さんの住所を知ってるのかな」
「近所のスーパーで逢ったこと、あります」
 五十嵐の額が翳った。
「そうか。 じゃ、向こうの駅を降りたときも気を付けて」
「はい。 これ、買いました」
 亜矢は元気に、バッグのからしスプレーを出して見せた。






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