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表紙

戻れない橋  25 用心は必要



 電車に乗っても、亜矢の興奮はまだ尾を引いていた。
 それは当然だ。 あんな目に遭うなんて、一生に一度あるかないかだろう。 ほぼ満員の車両でやむなく立っていると、足がしびれてじんじんした。
 思い切り蹴ったし、その後踏んだ。 靴まで壊した。 しかし一番怖かったのは、バッグの紐を掴まれたときだった。
 財布、定期、手帳に資料。 大事なものが一杯入っているバッグだ。 手離すわけにいかない。
 でも、引っ張り合いをしている間に、やっつけた二人の元気が戻り、車に押し込まれるか殴られたら最悪だと気づいた。 悲鳴を上げたって、通行人が助けてくれる保証はない。 一気に心細くなった。
 だから、五十嵐代表のパンチ一発が、どんなに心強かったか。 まさに地獄に仏だった。
 それにしても、あの殴りと脅しのセリフは迫力があった。 はっきりした自信と、余裕さえ感じ取れた。 二人組は、そのことを感じ取ったからこそ、逆襲もしないで逃げ去ったのだろう。
 びっくりした〜。 五十嵐代表は喧嘩慣れしてるんだ──亜矢は今更ながら、感動した。 そして、夢見るような気分にひたった。
 憧れの代表に救ってもらうなんて、まるでドラマみたいじゃないの。 凄すぎ!


 代表との約束を守り、帰宅しても両親には、危機一髪だったことを話さなかった。
 ただ、念のため対策は取った。 携帯にGP機能をつけることにしたし、日曜に買物へ行って、からしスプレーを三本入手した。
 それでも月曜日に会社へ向かい、駅から降りていつもの通りを歩くとき、周囲にどうしても視線を走らせた。 そして、途中でただ一人の同期、相澤鉄也ことテッケンさんを見つけると、喜んで走って追いつき、肩を並べて会社に向かった。
「おはようございます!」
「あ、おはようございます」
「テッケンさん、早起きですね」
「いや、古藤さんがいつも早く来てるって聞いて。 ボクも新入りだから」
「テッケンさんはちがいますよ〜。 私みたいな半人前じゃないですもん」
「え、聞かなかった? 古藤さんの色使いが向いてる企画があるって、望月さんが言ってたけど。 今度のブライダル・センターのパンフ作りに協力してもらうって」
「は?」
 亜矢の頬が、みるみる上気した。
「望月さんが? 覚えていてくれるかな……」
 とたんにテッケンは笑いにむせそうになった。
「心配だよね〜。 絵コンテまとめてタクシーに忘れてきちゃう人だもんね」
 半月ほど前、仕上がったデザインを顧客へ届けに行く途中、望月は車の中で新しい発想を思いつき、氷川神社へ行く先を変えた。
 あげくに、スケッチに夢中になって、届けるはずだった大事な封筒を置き忘れ、スケッチブックだけ持っていったのだった。
「すぐ見つかってよかったけどね〜。 単純なことを一人でさせちゃいけないんだな、あの人には。 ハートも脳みそも芸術の海にただよってて、斬新なアイデアが魚みたいに泳ぎまわっているのを、捕まえるのに忙しいんだから」
「うまい言い方ですね〜」
「いや、僕もたまにはそんな幸運なときがあるから。 ごくたまにだけど。 そういうときは、逃がさないように必死で、周りなんか見えなくなっちゃって」
 そうね、私もたまーにある。 そのときは舞い上がった気分になるけど、翌朝見直すと、意外に新鮮味がなくて、がっかりすることが多いな。
 亜矢は素直に、独創的なことで知られている望月と、彼に近づいているように思えるテッケンさんがうらやましいと思った。






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