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戻れない橋  18 交渉が上手



 五月の末、晴れて風の強い日、河内が久しぶりに本社へ出社してきた。
 亜矢が挨拶すると、笑って傍に来てくれたが、視線をワークルーム中に走らせて、気が散っている様子だった。
「元気にやってるんだってね。 評判いいよ〜」
「え? 誰に?」
「ここの皆にさ。 君って八方美人?」
「そんなー」
 気のおけない会話を交わした後、河内はすぐ真顔になって五十嵐を探しはじめた。
「代表、部屋にいる?」
「はい、工藤さんと」
「ああ……」
 困ったように一瞬ためらった後、ワークルームからいったん出ていく背中を、亜矢はいくらか不安な気持ちで見送った。


 問題が起きたことは、午後になってわかった。 五十嵐が自ら河内と連れ立って長野に出かけ、後に残された社員たちの間に少しずつ話が伝わった。
「向こうの所長がね、ずっと体が弱ってて入院してたんだって。 その人が芸術的でいい人だったんだが、とうとう亡くなって、新しい所長が来て」
「そいつが、もろ官僚なんだって。 外見はどうでも予算を削ることだけ考えてさ」
「方針が変わったわけか。 かなわねーな。 大口の注文だったのに」
「ケチから芸術の擁護者に代わるなら歓迎だけどね」
「そんなうまい話はめったにないと」
「そうそう」
 最後は嘆き節で終わった。




 翌朝、亜矢は湿った雰囲気を覚悟して、会社に向かった。
 だが、エントランスに入ってみると、受付の原さんが小さく口笛を吹きながらパンフレットを並べていて、亜矢を見るとウィンクしてきた。
「おはようこざいますっ。 またまた社長の勝利」
「え?」
 思わず問い返した亜矢を、原は手招きして傍に呼んで、内緒話ふうに語った。
「五十嵐代表の交渉スキルで、長野の契約は現状維持」
「減らされなかったんですか?」
「そうです! 予算超過はダメって釘さされたそうだけど」
「すごいですねぇ」
 そういう交渉がどんなに気が重く、厄介なものか、経験不足の亜矢にもある程度予想できた。 あの静かで洗練された態度で、どうやって相手の上を行くのか。 亜矢は少し想像してみたが、どうしても場面を思い描くことができず、あきらめた。
 オフィス内には昨日の気詰まりな感じはなく、いつも以上に活気付いていた。 一番身近な先輩の真際かれんに訊いてみると、五十嵐代表は見かけによらず駆引きの名人で、彼のおかげで会社は少なくとも収入を三割増しにしているだろうとのことだった。
「そっちの腕で引き抜かれそうになったこと、あるのよ」
 真際は面白そうに耳打ちした。
「得意先の社長が、おとなしい息子よりあんたのほうがいい、婿養子にならないかって。 冗談じゃなく、けっこう本気で」
 婿養子だと?
 亜矢はムッとなった。
「それで代表は?」
「断った。 何て言ったか正確には知らないんだけど、望月代表によれば、僕の本性を知ったらお嬢さんに気の毒だから、と言ったらしい。 笑い話にしてたけど、案外まじかも」
 嬉しくて真際も口が軽くなったのだろう。 それはワークルームで亜矢が初めて聞いた、五十嵐代表についての私的な噂話だった。






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