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戻れない橋  14 色々と体験



 望月が登場して相澤テッケンとなごみ、紹介という堅苦しい雰囲気を溶かしてしまったおかげだろうか。 亜矢が名前を言って挨拶しようとしたとたんに、脇のデスクから背の高い女性が立ち上がると、微笑みかけて腕を取った。
「古藤亜矢さんね。 真際〔まぎわ〕かれんです。 この名前、言うたびに恥ずかしくなっちゃうんだけど」
 本人は軽い前ふりとして、よく言っているのだろうが、亜矢は少し当惑した。 真際さんは堂々とした骨格で、決して太ってはいないにしても、なかなかたくましかった。 だからといって、かれんという名前が似つかわしくないとは思わない。 名づけた親にとって、我が子はたまらなく可憐に見えたのだ。
「きれいな、いい名前」
 亜矢が真顔で言ったため、かれんは一瞬戸惑ったようだが、すぐ腕に力を入れて、亜矢に用意されたデスクに引っ張っていった。
「ありがと。 さて、新人さんがみんな通るプロへの第一歩です。 ここにあるものを何でも使って、自分の名刺をデザインしてくださいね」
 ああ、なるほど──実用的で、しかも新人の力を試せる、いいトライアルだ。 亜矢はすぐデスクに腰を落ち着けて、熱心にデザインを始めた。


 やがてワークルームに客が訪れた。 応接室は別にあるが、慣れたクライアントはこっちに来るらしい。 新人の常として、亜矢はすぐ仕事を中断して給湯コーナーに行き、真際かれんに教えてもらってコーヒーを入れた。
「彼は村井さんといって、田宮製紙の人。 お茶は飲まなくて、いつもコーヒー」
「はい」
 営業も実務と同じに大切だと、父に前もって注意されていた。 亜矢はトレーを持ってできるだけ慎ましくカップを出しながら、そっと村井という中年男性を見て、顔を覚えた。




 めまぐるしく、眩しいほどの初日だった。
 夕方になって、ささやかな歓迎会を開こうと五十嵐代表が言い出し、都合のつく大部分の社員が一緒に行こうとしたその矢先、緊急の仕事が入って、おじゃんになった。
「惜しかったなぁ。 今日はみんな来てて、いいタイミングだったのに。 じゃ、また後日ってことで」
 五十嵐代表はすぐ気持ちを切り替えて、新たな打ち合わせに入った。
「残業ですか?」
「そうね。 高畠〔たかはた〕さんたちがやるみたい。 私たちはもうお役御免だから、一緒に帰ろ」
 そう言って、真際さんは笑顔で亜矢の背中を叩いた。 亜矢は素早くデスクの上を片付け、コートを取りに行った。
「じゃ、お疲れ!」
 真際さんが陽気に言っている。 亜矢も寄り集まっている居残り組に頭を下げて、挨拶した。
「お先に失礼します。 お疲れ様でした」
「これから一段と疲れんのよ〜」
 望月のひょうきんな声がして、あちこちから冗談まじりの溜息が巻き起こった。
 出際に見ると、同期の相澤テッケンは望月に引き止められて、初日から仕事の輪に入っていた。 そして、亜矢と視線が合うと、歯を見せて笑って手を振ってくれた。






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