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表紙

戻れない橋  10 嬉しい年末



 夜の八時前に戻った父は、母ほど面白がらなかった。 真顔で亜矢を眺め、困ったように訊いた。
「その五十嵐社長って、結婚してるのか?」
「さあ」
 亜矢はきょとんとして首をかしげた。 いきなりそんな話になるのがよくわからなかった。
「ちょっとかっこいいと思っただけ。 私生活に興味ないよ」
「それが運の尽きってこともあるんだぞ」
 父は、あくまでも心配していた。
「実社会に出て、ある程度金が入るようになって、気が大きくなるだろ? 先輩の男がつい素敵に思えて、不倫なんてことになったら」
「考えすぎ」
 背中がもぞもぞするような気分になって、亜矢ははっきり言い返した。 不倫は嫌だ。 人のダンナを取るなんて、考えただけで気持ちが悪くなった。
「そういうことはしません。 なんでいきなり不倫とか言い出すの?」
「いや……」
 父は勢いを無くし、口の中でもぞもぞ聞こえない言葉を呟いた。
 母がオムライスの仕上げをしながら、陽気に言った。
「そんなことがお父さんの会社であったんじゃないの? ねえ亜矢、社長さん左手に指輪してた?」
 さあ、どうだっただろう。 亜矢は視線を宙に浮かせて、思い出そうとした。
「覚えてない。 短い時間にたくさん説明してもらったから、ついていくのに必死で」
「ほーら、まじめな社長さんなのよ。 かっこよくたっていいじゃない? 亜矢は集中力があるから、最初は仕事おぼえるのに一生懸命で、社長さんに見とれる暇なんかないって」
「見とれてないよ」
 やれやれ、失言の余波は大きい。 亜矢はうんざりして立ち上がり、ご馳走の皿をテーブルに運ぶ手伝いをした。




 ともかく、就職が決まったおかげで、クリスマスと正月は楽しい日々になった。
 亜矢は会社を紹介してくれた先輩の河内〔かわち〕に、まず感謝のメールを送った。 面接に行ったときは、たまたま彼が留守でお礼を言えなかったのだ。
 返事は一時間以内に来て、後輩の採用に感謝したら、きちんとしたいい人だと社長も喜んでいた、という内容だった。 亜矢は言い尽くせないほどホッとした。
 それからは、遊びに遊んだ。 あまり家にいないので、両親が寂しがったほどだった。
「せっかくの冬休みだのに、出かけてばっかり」
「ごめん、年が明けたらおとなしくなるから。 でも、ただ飲み会してるだけじゃないんだよ。 みんなの話聞いて参考にしたり」
 大抵は雑談だが、ところどころに耳寄りな情報が挟まっていた。 それに、人の輪を広げておくほど得なのは確かだった。


 年末のカウントダウン・パーティーにも誘われたが、これは断った。 毎年、一家でコンサートに行く習慣があるのだ。
 父の達郎は若い頃ピアノをやっていて、学生時代にジャズピアノのバイトをしたほど腕がよかった。
「続けてたらプロになれたかもしれない。 でも個人授業受けたら破産するっていうほど高いし、そこまで野心なかったんだって」
という母の言葉のように、今は趣味で弾いて、娘に教えるだけで満足しているらしい。 亜矢で鍛えられたから、会社を定年になったら、ピアノ教室を開いてもう一儲けするか〜、と、冗談交じりに言っていた。







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