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表紙

戻れない橋  4 意外な事情



 子猫は痩せほそって、ノミがたかっていたが、幸い病気にはかかっていなかった。
「薬液で洗ってやりましたから、ノミはもう心配ありません。 後は一週間ぐらい様子を見て、体力が回復したら予防注射しましょう。 その間、野良猫に噛まれたらいけないから、外には出さないように」
「はい、先生」
 栄養剤をもらった亜矢と母は、胸を撫でおろして動物病院を出た。


 その夜、仕事から戻った父の達郎〔たつお〕は、すっかり元気を取り戻して、亜矢に買ってもらったきらきらボールを追いながら玄関を走り回る子猫を見て、まず顔をしかめた。
「なんだ、これは?」
 亜矢が急いで玄関に出て、父の鞄を受け取りながら説明した。
「ミキちゃん。 お母さんがネズミみたいだって言うから、ミッキー・マウスから取ったの」
 父は子猫から目が離せなかったが、それでもわざとらしく溜息をついた。
「細いな。 拾ったんだろ」
「拾ったっていうか、貰った、みたいな」
「貰った?」
 亜矢はいそいそと父の靴を揃え、二階へ上がるのについていきながら、背後で説明した。


 寝室のドアをあけ、娘からビジネスバッグを受け取った後、達郎はもう一つ溜息をつき、降伏した。
「まあ、その男の子が助けた命なら、養ってやるべきだな。 運のいいチビだ」
「ありがとう、お父さん!」
「その代わり、ちゃんと亜矢が世話するんだぞ。 すぐ飽きてお母さんに押し付けるなよ」
「私がする。 痩せてるけど健康だって、獣医さんが」
「もう診せたのか? よかった」
 そう言って、父はやっと笑顔になった。
「ジンちゃんとかハックとか、いろいろいるからな。 まあ猫の病気はうつらないだろうけど」
 ジンちゃんとはモルモットで、ハックはお祖父ちゃん譲りのオウムだった。 前にハムスターのチルチルも飼っていたが、寿命が短いので、死なれた後の悲しみに耐えられなかった亜矢が、跡継ぎを買うのを止めていた。


 三日もすると、ミキ(オスだった)を誰よりもかわいがるのは、達郎になった。 父が夕食後、ソファーに移ってスポーツ中継を見るという習慣を、あっという間に覚えたミキは、すぐついていって甘え、一発で気に入られた。
「要領がいいよね〜、ミキは」
「ちょっときれいになってきたしね」
 四日間おいしいものを食べまくった子猫は、ずいぶん見栄えがよくなっていた。
 妻と娘がちらちら見ながら笑っているのを、達郎は余裕で無視していた。 それでもハーフ・タイムでトイレに行き、戻ってきた後、また寄ってきたミキを抱き上げながら、思い出して話を始めた。
「交番の前を通ったらさ、金髪の男の似顔絵が出てたよ。 亜矢の言ってた子じゃないか?」
 とたんに、亜矢の背中が板のように強ばった。
「似顔絵……?」
「遺体の顔写真は出せなかったんだろう。 身元不明らしいんだ」
 誰かわからないの?
 食事椅子の背にもたれて、亜矢は顔を覆った。 やりきれなかった。 彼は免許証も携帯電話も、定期のパスも、なんにも持っていなかったんだ。 たぶん小銭と鍵くらいで。








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