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道しるべ
238 勇気を奮い
恨んではいない。
そんな生やさしい感情じゃなかったと、イアンはそのとき初めて悟った。
戦いが終わり、フランスからイギリス本土に戻るあの日、船の上で風になびく外套の下が、空っぽの樽にすぎなかったとわかった瞬間、彼は内臓を抜き取られたようになった。
正確に言うと、心臓をだ。
あれから後は、ただ動いているだけだった。 手に入れた大金も、大きな町の喧騒も、ただわずらわしいだけで、しゃにむに故郷へ帰りたかった。 慣れ親しんだ故郷の景色だけが、戦いと失恋で痛んだ心を癒してくれる。 そう思った。
そうだ、あれは失恋だったんだ、確かに。
急にイアンが落ち着きをなくしてそわそわし出したのを見て、トムはすやすやと寝入ったロザモンドをそっとベッドに降ろすと、親友に近づいて肩をぐいと押した。
「行けよ。 もうおれのことはいいから」
お返しに、友の腹に軽く拳を入れてから、イアンは廊下に出て、早足でジョニーを探しに行った。 ようやく自分に認めた恋心を打ち明けるために。
広間にも厨房にも、よく薬草や花の手入れをしている中庭にも、ジョニーの姿はなかった。
次第に不規則になる鼓動を感じつつ、イアンは再び階段を駆け上がって、夫婦の寝室に向かった。
わざとバタンと音を立てて扉を開いたが、反応はなかった。 広い部屋はいつものように整然としていて、一見何もなくなっているものはない。
むしろ、今までになかったものが、ベッドの対角にある丸テーブルの上に載っていた。 水差しを上に置いて窓からの風に飛ばないようにした羊皮紙の一片だった。
イアンは入り口で立ち止まった。
どうしても足が前に出ない。 悪夢の中で、暗黒の塔の中をどこまでも墜落していくように、足元が頼りなくふわふわして力が入らなくなった。
どのぐらい立ち尽くしていたかわからない。 それでもいつの間にか、イアンは部屋をのろのろと突っ切り、窓辺に近づいていた。
外は黄昏〔たそがれ〕が迫っていた。 薄紅の筋が上から押し寄せる灰色の幕と溶け合い、天駆ける女神の裳裾のようにひらめいて、今にも地平線に姿を消そうとしているところだった。
ああジョニー。
腹の底から呻きが突き上げてきた。
こんなひどいことはしないでくれ。 あの夕日のように、俺の前から消えないでくれ……!
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