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道しるべ  236 説得したが


 必死で平静を装いながら、イアンは扉の前で振り返った。
「君は遊びに行くんだ。 たまの息抜きは誰にでも必要なものだ。 無駄だなんて見当違いなことを」
「私は田舎の領地育ち。 都会の騒ぎは頭が痛くなるだけだし、もうドレスは充分以上に持っているわ。
 私のことよりあなたこそ、ロンドンで羽を伸ばして楽しんできて。 貴族になれば周りの扱いも変わってくる。 あちこちからお招きを受けて、面白いことが沢山あるでしょう」
「君の亡くなった夫のように?」
 イアンは皮肉を交えて、低く切り返した。
「おれは地味な男だ。 特に面白いことを求めてもいない。 君が行かないなら、用件を済ませてすぐ引き返してこよう」
「それでも一ヶ月はかかるでしょうね。 たとえ王様が祝賀会にあなたを連れまわさなくても。 やはり留守番は必要だわ」
 そうだ、考えてもいなかったが、貴族籍の授与にはお祝いがついて回るだろう。 イアンは当面ジョニーと離れずにすむ口実を思いついた。
「社交には妻が必要だ。 身分が高く貴族の心得をよく知っている妻なら特に。
 どうか一緒に来てくれ。 おれには君が頼りだ」
 ジョニーは一瞬目をつぶった。 失言したと思ったのだろう。
 それから鹿を思わせるつぶらな瞳を開くと、諦めたように静かな声で答えた。
「ええ、ご一緒するわ」


 イアンは胸を撫で下ろし、痛んできたこめかみを指で押してから、トムを探しに行った。
 予想したとおり、トムは気の利く召使頭のエッシーが用意した二階の子供部屋にいた。 扉は開けっ放しで、窓辺に立っているトムの姿が、逆光でシルエットのように見える。 その腕には、小さなロザモンドがしっかりと抱かれていた。
 トムは子供を軽くゆすりながら、大きく広がるヨークシャーの平原と、その向こうにそびえるペニン山脈の端を見せていた。
「ほら、あれがライモンド山だよ。 昔々大昔、あそこのてっぺんに大男の鬼がいて、裾野に迷い込んできた羊を、一口でパクッと呑みこんでいたんだよ」
 娘は、まだ生え揃わない小さな歯を覗かせて、きゃっきゃっと笑った。
「おっきな口」
「ほんとだね」
 そのときトムはイアンが戸口にいるのに気付き、首だけ回して微笑んだ。
「なかなか下りてくれないんだ。 抱き癖がついちゃうかな」
「いいじゃないか。 それだけなつかれたら嬉しいもんだろう?」
「ああ、確かに」
 そう答えるトムの顔は、とろけそうになごんでいた。
 イアンは戸口に寄りかかり、伝えたいことを口にした。
「明日レディ・モードが来るそうだ。 おまえとその子に会うために」











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