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道しるべ  211 鮮明な記憶6


 触られていないのに襟首を引き戻されたような勢いで、モードはトムの傍に駆けつけた。
「なに?」
 まだちょっとふらふらする様子で、トムはドアの端に寄りかかっていたが、顔色は昨日と比べ物にならないほどよかった。
「感謝します、心から。 貴方が来てくれたから、僕は熱が下がって病気が治りました」
 照れて、モードはおどけてみせた。
「奇跡を行なった天使だなんで言わないでね。 まだ地上を離れたくないの」
「貴方は優しい。 もしかすると天使よりも」
 トムが声を落として囁いた。 それから笑顔を消すと、続けて言った。
「受けた恩は返したいです。 貴方は僕に何を望んでいますか?」


 正面切って言われて、モードはたじろいだ。 それで、思わず口ごもってしまった。
「何って……ただ傍にいたいの。 そういう気持ちになったこと、ない?」
 トムは心から困った表情になった。
「友情ですか?」
 まじまじと、モードはトムを見つめた。 いくら十代半ばまで僧院で育ったとはいえ、世間でいえばもう大人だ。 体の衝動も心の悶えも、まったく感じたことがないというのだろうか。
 いらついたモードは、天使を止めて小悪魔になった。 前に立つ大柄な体に、いきなり倒れかかって抱きしめたのだ。
 トムの体が緊張した。 右手で扉を支えにしているので、左手だけでそっとモードを引きはがそうとしたが果たせず、いつの間にか彼女の肩に手を置いていた。
「いけません」
 彼の胸に顔を押しつけたまま、モードは呟いた。
「悪いってことは知ってるのね」
「もちろんです。 僧侶は神に奉仕する身」
「表向きはね」
 モードはずばりと言い返した。
「でも愛人を持ってるお坊さんは結構いるわ。 実はここの副院長だって……」
「知ってます」
 驚くことを、トムはさらりと答えた。
「夜に、ブラザー・ユージンはこの建物の裏を抜けて、町へ出かけるんです。 革商人の未亡人のところへ」
「あきれた」
 見習僧侶にまでバレるほど堂々とやるなんて。 モードは格式高いと言われているセント・ジェームズでも裏はあるのだと思わざるをえなかった。
「上がそんなお手本を見せちゃ、下の者によくないわね」
「ブラザー・ユージンの実家は貴族で、寄付もたくさんなさっていますから」
 この人も世間知らずってわけじゃないんだ。
 悟ったようなトムの言葉を、モードは驚きと共に聞いた。












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