表紙目次文頭前頁次頁
表紙

道しるべ  209 鮮明な記憶4


 秋は麦の取り入れやエール作りなどで、僧院も目が回るほど忙しい。
 そんな中、不意に熱を出して倒れた見習僧を手厚く看護する余裕は、広いセント・ジェームズ修道院にもなかった。
 トムは離れの小さな僧房に寝かされ、意識がもうろうとした状態で半日放っておかれた。


 彼がいつもの通り、山羊の世話をしに現われないので、山羊小屋で待っていたモードは気が気でなくなった。
 新しい修業に入ったのだろうと、一度は諦めて城に戻ったものの、翌日の午後にも姿を見せないとわかると、のぼせて彼女らしく行動に出た。
 修道院の拡張工事に雇われている石工頭にワイロをつかませて、トムがどうしているか探らせたのだ。


 その日の夕方、トムは転げ落ちるように粗末なベッドから出て、渾身の努力で用足しを済ませ、壁や家具を伝って寝床に戻った。
 わずか数歩の運動でも、疲れきってしまった。 斜めに倒れたまま粗い息をつき、激しい喉の渇きにあえいでいると、猫の引っかくような音が壁のすぐ外で聞こえ、間もなくぎしぎしときしみながら窓が開いた。
 その嫌な音が頭に響いて、トムは顔をしかめ、重い瞼をわずかに開いた。 すると、地味な乗馬服をまとったモードが、巧みに小さな窓枠を乗り越えて入ってくるのが見えた。
 唖然として、トムは肘で体を支えながら起き上がろうとしたが、腕に普段の力が入らず、手がすべってバタンと倒れた。
 とたんにモードが走り寄ってきた。 そして、心配そうに小声で囁きながら、ハンカチを出して汗まみれのトムの顔と首筋を拭いてまわった。
「ひどい汗だわ。 熱も高いし。 ねえ、何の病気?」
 トムは必死に乾いた口を開き、モードに警告した。
「わからないんです。 だからうつるかもしれない。 貴方まで病気になったら大変だ。 すぐ部屋を出てください」
 だがモードは、彼の言葉よりも白っぽくなった唇と舌に気を取られていた。
「からからじゃない。 ひからびてるわ。 水を飲まなくちゃ」


 それから、モードの大奮闘が始まった。 急いで水差しを持ちあげてみたものの、ほとんど空っぽなのに気付いて舌打ちすると、外に出て井戸からくんできた。
 次にトムの重い頭を腕で支えて、カップについだ水を飲ませ、濡れたシャツを何とか引き抜いて脱がせた。
 新しい服を着せる力はなかったため、モードは脱がせたシャツの裾でトムの全身を拭った後、裏口から忍び出て、洗濯物のシーツを一枚失敬してきた。
 日向の匂いのする大きな布をトムの体に巻きつけて、モードはようやく一息ついて、部屋に一つだけあった小さな椅子に腰掛けた。












表紙 目次 前頁 次頁
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送