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道しるべ
207 心に秘めて
ぽつぽつと落ちていた雨は、今では霧雨状になって、細かく肩を濡らしていた。
イアンが山羊小屋の前を抜けて、マントをひるがえしながら坂道を下りていくと、下に広がる耕作地の中にぽつんとたたずむ大柄な体が見えた。
「トム!」
早めに気付かれて、また姿を消されては困る。 そう思ってイアンが呼びかけた声を聞いて、トムは瞬間、ぎくっとした様子を見せた。
それから、諦めたようにのろのろと振り向き、友を迎えに歩き出した。
二人は坂道の半ばで出会って、足を止めた。
間近で眺めると、この二時間あまりで、トムの目は落ちくぼみ、頬にもげっそりしたやつれが出ていた。
イアンはその姿を見て心を決めた。 そして、前置きなしにずばりと尋ねた。
「好きなひとがいたんだな? 全然気付かなかった」
トムの視線が丘のほうに逸れた。 唇が震え、小さく吐息をつく音が聞こえた。
「彼女が好きなのは……君だ」
その悲痛な囁きが耳に入った瞬間、イアンはのぼせあがった。 母の夫だったろくでなしを殺して以来、こんなに逆上したのは初めてだった。
いきなりイアンが飛びかかってきたので、不意を突かれたトムはバランスを崩し、しっとりと濡れた地面に倒れた。
二人はがっちり組み合ったまま、斜面をごろごろと転がり落ちた。 平地に着くまで、イアンは少なくとも三発、トムをぶん殴った。
泥だらけになってトムにまたがったイアンは、鬼の形相で怒鳴りつけた。
「殴れ! 殴り返せよ、ほら! やられたままなら、もっと殴るぞ! この腑抜け野郎!」
トムはそれでも動かなかった。 大きな目を見開いて、ただじっとイアンを見つめているだけだ。 イアンはあまりの歯がゆさで、涙が出そうになった。
仕方なく、トムの巨体から這い下りると、イアンは横に座り込み、犬のように唸り声を上げた。
「おまえは莫迦だ。 子供の幼稚なあこがれと、本気の恋の区別もつかないのか」
「確かにおれは馬鹿なんだよ」
否定もせず、トムは素直に応じた。
「おれは修業と勉強と祈りしか知らなかった。 レディ・モードが修道院の裏庭に、まるで空から落ちてきたように立っているのを見るまでは」
「それはのぼせるだろうさ。 当たり前だ」
イアンは不機嫌に呟いた。
「何といっても、この辺りじゃ一番の美女なんだから」
トムは半身を起こし、顔をこすって、こめかみと瞼についた泥を払い落とした。
「地上に降りた天使に見えた。 後で絵に描こうと思って、しばらくじろじろ見てしまったぐらいだ。
でも、そのときは別に好きじゃなかった」
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