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表紙

道しるべ  192 喧嘩別れか


 怒ったモードは、トムを置いて馬屋から飛び出してきそうだ。
 そう予期したイアンは素早く身をひるがえして、音を立てずに馬屋の横にある納屋〔なや〕の陰に隠れた。
 直後に、足音が聞こえた。 女の軽い靴の音ではなく、重く引きずるような男の足運びだった。
 その背に、モードの鋭い声が飛んだ。
「逃げるの? 言いたいことがあるはずよ。 はっきり言えば? 口にしたらすっきりするわよ!」
 途切れぬ足音と共に、低いトムの返事が遠ざかっていった。
「もう俺のことは放っておいてください」


 イアンは、板を張った納屋の壁に頭をもたせかけて、空を仰いだ。 薄い灰色の雲で覆われた空は、不気味なほど静まって動かず、イアンの頭に渦巻く疑問の山に何の答えも示してくれなかった。
 一分ほど動かずに考えていたとき、かすかな音が響いてきた。 やがてそれがすすり泣きの声だと気づいて、イアンは固まった。
 モードが、泣く?
 いつも強気で、涙をわずかでも見せたのは夫の葬儀のときだけだった。 それもさめざめと泣くというより悔しがっているという様子だったのだ。
 実はイアンは涙に弱い。 もしジョニーがこんな風に悲しげに泣いたら、辛くて内心おろおろしてしまうだろう。
 今も思いがけないモードの反応に驚いて、馬屋を覗いてみるどころではなくなった。 モードが彼の慰めを必要としていないのはわかっていた。 むしろ逆に、涙に屈したところを見られたら、モードはひどく恥ずかしい思いをするだろう。
 モードがもし悩みを相談するとしたら、彼の妻ジョニーしかいない。 女同士の会話が済んだ後で、ジョニーにこっそり様子を聞いてみよう。
 イアンはいっそう足音を忍ばせ、反対側の方角から遠回りして、母屋の裏口に戻った。


 厨房に入って昨夜の飲み残しのワインを失敬していると、エフィーが眠そうに被り物を直しながら現われた。
「あら、旦那様、新しいのをお出ししますよ。 そんな気の抜けたのじゃなく」
「いや、いいんだ。 ちょっと喉が渇いただけだから」
 それからイアンは、さりげなく尋ねた。
「トムはもう帰ってきたかな?」
 汚れ防止の上っぱりの袖に手を通した後、エフィーは何も気づかずに答えた。
「はい、今そこの廊下ですれ違いましたよ。 ジェレマイア爺さんの家で一晩中羊談義をしていたそうでね。 疲れたから夕方まで寝るって言ってました」
 本当に寝るのか。 それとも顔を合わせたくない人がいて、寝室に引きこもるのか。
 イアンはトムと腹を割って語り合いたかった。 だが今は、部屋に押しかけていくのがためらわれた。
 トムはモードと知り合いだった。 それも、モードのほうがトムを気遣うほどの親しい仲だった。 だがこれまで、トムはそのことを、まったくイアンに悟らせなかったのだ。











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