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道しるべ  162 思いがけず


 間が悪いとはどういう意味なのか、イアンが問いただす前に、上の窓が開いてジョニーが身を乗り出した。 ヴェールからはみ出した後れ毛がそよ風になびいて、少女のように愛らしかった。
「誘ってくださってありがとう! 五分で着替えて降りていきます!」
 モードに向かって呼びかけた後、ジョニーの視線がイアンに移った。 見つめ合ったのはほんの短い間だったにもかかわらず、どちらの眼にも新たな輝きが宿った。
 ジョニーが急いで引っ込むと、モードは胸で腕を組み、鞭の先でイアンを軽く叩いた。
「ほら、見なさいよ。 顔をしかめてごまかしても駄目よ。 彼女はあなたに恋してるし、あなたも彼女に夢中なんでしょ?」
「恋ですか?」
 イアンの声が唸るように低くなった。 そろそろ忍耐も品切れだった。
「貴婦人に真心を捧げ、足元にひざまずいて忠誠を誓う? そんな魂の奴隷になるのは願い下げです」
 すると突然、モードの表情が昼から夜のように激しく変わった。 いつもわりと上機嫌の彼女には珍しいことだった。
「そう。 女なんかまともに相手にするのはお断りってことね」
 極端な言葉に、イアンは鼻白んだ。
「そんなことは言っていません」
 モードは腕を解き、大きく息をして落ち着こうとした。
「でも、愛する価値がないと言ってるのと同じだわ」
 誰がそんなことを! イアンは思わず激して言い返していた。
「女性に価値があることぐらいわかってます! のめりこめないのはわたしの性分で、そういうふうに生まれついてるんです。
 でもたとえ、熱烈ですぐ燃え尽きるような恋はできなくても、ずっと大事にすることはできます。 絶対にできるし、そうするつもりです」
 そのとき、思ってもみなかったことが起きた。 モードが強くまばたきすると同時に、足元の埃っぽく乾いた土にぱらぱらと水滴が落ちかかって、黒い跡が点々とついた。
 泣かせてしまったのか?
 イアンは自分の目が信じられなかった。 モードは常に明るく強気で、涙など一度も見せたためしがなかったのだ。
 気づかれたのを知ると、モードは隠したりせず、堂々と手の甲で眼を拭いた。 そして、いくらか湿った声で、静かに言った。
「うらやましいわ。 あなたなら本当にやるでしょうね」


 二人の間にぎこちない沈黙が立ち込め、無言の時間が何分か過ぎたとき、軽い足音がした。 乗馬服に着替えたジョニーが、絶対に離れない侍女のユージェニーにつきまとわれながら、扉を開いて出てきた。
 ジョニーの顔は、空から見降ろす太陽のように輝いていた。 幸せそうな彼女を見て、イアンの気持ちもすっとやわらぎ、優しくなった。
 直前の口論を知らぬまま、ジョニーはモードの馬に並べられた牝馬に近づくと、首筋を撫でた。 モードが馬番の手を借りて馬に乗る間に、イアンはジョニーに手を貸して鞍に乗せた。 ジョニーは品よく礼を言いながら、彼の手を一瞬だけ、強く握った。










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