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道しるべ  151 新居の館で


 時は五月。 新緑に覆われはじめた野山には白や紫の花が咲き乱れ、放牧地に点在する羊の群れは、地上に降りた雲のように形を次々と変えながら塊を作って、生え揃った草を次々とむさぼっていた。
 馬の脚を痛めぬよう、イアンは余裕を持って歩かせていった。 女性二人を平坦な道で楽に移動させようとすると、自然になだらかな景色のいいところを通ることになる。 最初はつまらなそうに前ばかり見ていたユージェニーも、途中からは、午後の柔らかい日差しが照らすのどかな平原と丘陵にそっと目をやるようになった。
 ジョニーは最初から、周囲に興味を持って眺めていた。 そして、面白い形をした丘や、見慣れない道標を目にすると、イアンに名前や由来を尋ねた。
「二つコブ丘? 見た目そのままね」
「その向こうの斜面は、怒るサラセンの崖というんだ。 ここにはサラセン人(アラブ人の一派)なんか来たことがないのに」
「それぐらい恐ろしいってことなのかしら」
「たぶんそうだろうな」
 女主人とイアンがくつろいで話しているのを、侍女のユージェニーは初めのうち、違和感のある表情で見比べていた。 三人の会話は北部フランス語で交わされていて、彼女にも完璧に意味が取れる。 それなのにこの生意気な娘は、なぜぽかんとした顔で『奥方様』を見つめるのかと、内心イアンは気に障った。


 やがて三人の馬は浅い小川を渡り、いよいよイアンの土地に入った。
 そこからは気持ちがはやった。 前の二人がスピードを上げて馬を速駆けさせはじめたので、ユージェニーも慌てて後を追った。
 すぐに屋敷が見えてきた。 目印になる立派なケヤキの大木を発見して、ジョニーの瞳が輝いた。
「まあ、故郷の庭にある木とそっくり!」
「少し似てますね」
 ユージェニーもしぶしぶ認めた。
 イアンは少し先に行き、門番小屋に新しく入ったハウエルに声をかけた。 するとたちまち大門が両側に開かれ、ハウエルが呼ばわって回るごとに、家のあちこちから雇い人たちが姿を現して、急いで玄関の前に並んだ。


 門を入ると、イアンはすぐ下馬して、ジョニーを馬から抱き下ろした。 ユージェニーのほうは、大柄で筋骨たくましいハウエルが手を差し出して、軽々と助けた。
 ジョニーの手を取ったまま、イアンはハウエルに尋ねながら周囲を見回した。
「トムは?」
 ハウエルは馬の轡を取って、下男に渡していた。 彼が一瞬首をかしげると、下男のほうが先に答えた。
「さっき村へ行かれました。 鋤の刃が折れたとかで、鍛冶屋に直してもらうんでしょう」
「いないのか」
 こういう時に限って……イアンはがっかりした。
 そのとき、ジョニーが体を寄せるようにして柔らかく言った。
「きっとすぐ戻ってくると思う。 逢えるのが本当に楽しみだわ。 それまで家の中を見せてもらえたら、気持ちも落ち着くでしょう」
 執事の職に居心地よく就いているガレスが、急いで着たらしい上着の裾を引っ張りながら出てきた。 イアンはすぐに紹介した。
「これは執事のガレス。 横にいるのが彼の連れ合いのエッシーで料理長をしている」
 それから、使用人のほうに向き直った。
「この人はマダム・クラリー・ド・モンタルヴィ。 今日、わたし達は婚約した」
 驚きに、並んだ雇い人たちの体が麦の穂のように揺れた。
 ガレスも一瞬目をむいたが、瞬く間に立ち直り、丁重なお辞儀をジョニーに行なった。
「それはおめでとうございます。 初めまして、マダム。 ガレス・ハントと申します」
 ジョニーはガレス夫妻に笑顔を見せ、優雅にうなずいて言った。
「よろしく」
 自然な動作に、大貴族の令嬢の風格がただよった。 水を得た魚のようだ、とイアンが密かに気遅れを感じるほど、それは場慣れた仕草だった。






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