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道しるべ  145 彼女の願い

 イアンは混乱の中に巻き込まれた。
 事情がさっぱりわからない上に、いきなり謎かけのような質問をされて、戸惑いは大きくなるばかりだった。
「財産家って……君のことなのか?」
 イアンの手首を包む細い指が、小さく痙攣した。
「ええ」
 イアンはいきなり目を見開いた。
「じゃ聞こう! いったい君は誰なんだ?」


 イアンを見つめていたジョニーの眼が揺れ、瞼が伏せられた。 指がイアンの手首を離れようとしたのを、反射的に彼が掴んで引き止めた。
 顔を半ばそむけたまま、ジョニーはぎこちなく話し出した。
「私は、クラリー・ジュヌヴィエーヴ・ド・モンタルヴィ。 デラニエ伯爵の娘で、去年ユージェーヌ・ジャン・ルイ・ド・モンタルヴィ侯に嫁いだの。 レディ・モードに聞かなかった?」
「聞いた。 だが少しだけだ。 肝心なことは知らないも同じだ」
 そう言いながら、イアンは力を入れてジョニーを引き寄せた。
「侯爵は馬上試合で死んだ。 そうだな?」
「ええ」
「それなら、なぜ未亡人の君が辻強盗と二人で空家にいた?」
 二人は見つめあった。
 やがてジョニーの口が震えながら開こうとしたとき、足音が響いてきて、次いで意外なほど近くで声がした。
「ほんとに馬車の中に忘れたのか? 他所で落としたんじゃないのか?」


 一刻の猶予もならない。
 イアンはとっさに、二人の横にあった大型馬車の扉を開け、ジョニーを押し込んで自分も入った。 この馬車が男たちの目当てでないことを祈りながら。
 幸い、男たちはぶつぶつ不平を言いながら通り過ぎていった。
「勝手に無くした腕輪を俺たちが盗ったなんて言わないでしょうね?」
「わからんぞ。 召使のことなんか羊以下だと思ってる女だからな」
「羊は毛が売れるけど、俺たちの髪の毛じゃ一ペニーにもなりませんからね」
「本気で比べるんじゃない!」
 息をひそめているイアンの膝に、つとジョニーの手が置かれた。 彼女は彼越しに身を乗り出して、扉の窓からそっと覗こうとしていた。
 その手の温もりで、イアンの不安定な心は、土台の緩んだ城壁のように一挙に崩れた。 彼はいきなり逞しい腕でジョニーを捕らえ、封じ込め、顔といわず胸といわず、めちゃくちゃに唇を押し当てた。
 馬車の外では、間抜けな声が叫んだ。
「あった! ほんとにありましたよ、ジローデルさん!」
「よし、苦労して探し当てたことにしよう。 礼金をせしめたら、山分けしような」
「はいっ!」
 入ってきたときとは別人のような軽い足取りで、二人はいそいそと馬車置き場を去っていった。


 箱馬車の床に座りこんだイアンとジョニーは、夢中で口づけを交わしていた。
 もうジョニーも受身ではなかった。 優美に垂れた袖口が皺になるのも構わず、彼女はイアンの首に両腕を回して、激しく抱きついていた。
「ここで講和がまとまらなかったら、叔父は船で国に戻るの」
 キスの合間に、ジョニーは切なげに囁いた。
「でも私は帰りたくない。 フランスに戻れば、財産目当ての貴族たちが押しかけてきて、無理にでも再婚させられてしまう。
 嫌なの。 知らない人や、どうやっても好きになれない人の妻になるなんて」






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