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道しるべ  142 口もきけず


 レディ・クラリーは、彼女を守るように横に立っている中年貴族の顔を見上げた。
 そして、その威厳のある貴族がかすかに頷くと、カー伯爵に向き直り、彼が差し伸べた手にそっと小さな手を置いた。
 伯爵はクラリーを先導してイアンの前まで行き、無表情のまま引き継いだ。 普通なら申し込みの一礼があってしかるべきだが、イアンはそれさえ忘れ、突っ立ったままで彼女の手を掌に受け止めた。
 同時に、待ちかねた楽団が舞曲の演奏を開始した。 男女は両脇に分かれ、優雅に挨拶しあって、ダンスが始まった。
 イアンにとっては踊り慣れた組舞踊だった。 だから自動的に足が動き、頭が空白になっていても無意識に続けることができた。
 向かい合った二人は斜めに交差し、戻って腕を取り合って回り、また分かれた。
 二度目に近づいて、高く伸ばした手を空中で重ねたとき、イアンの耳にかすかな声が聞こえた。
「九時課の鐘(午後三時の時報)が鳴ったら、客用の馬車置き場に来て」


 その声が耳から染み込んできた時、ようやくイアンは実感した。
 この人は、本物のジョニーだ。 他人の空似じゃない……!


 まだ頭脳が半分しびれた状態のまま、イアンはゆっくりした組舞踊を最後まで踊り終えた。
 男女が再び離れ、大きく膝を曲げて終わりの挨拶を行なった。 イアンが血の気を失った顔を上げたとたん、隣に並んだ派手な服装の貴族が巧みに肘を当てて、彼をはじき飛ばした。
 ふだんのイアンなら、睨み返すぐらいはしただろう。 だが、放心状態でほとんど気づきもしなかった。
 彼の前にいたレディ・クラリーは、銀のレースで飾られた胸元にさりげなく目をやり、それから連れの中年男に腕を取られて、部屋の奥へ去っていった。 ズボンを身にまとっていたときにはあれほど不恰好に見えた内股歩きが、長いスカートだとすべるように優雅な動きになった。


 イアンが食い入るようにレディ・クラリーの後姿を目で追っているのを、会場のほとんどの人が気づいていた。
 次は男女一人ずつで組になって踊る曲が演奏された。 壁際に押し戻されたイアンが、首を伸ばしてなおもクラリーを探していると、華やかなくすくす笑いがして、目の前にモードが立った。
「どうしたの? 水辺でぴょこぴょこ首を上げるチドリみたいになっちゃって」
 口を開けようとして、イアンの頬が短く痙攣した。 モードはすかさず彼の手を掴み、囁きながら、踊る人々の間に引き込んだ。
「教えてあげるわよ、あの人のこと。 この曲を一緒に踊ってくれたらね」
 その言葉でイアンの眼は焦点が定まり、熱が入ってモードの顔を見つめた。
 今度はテンポが速く、ステップも複雑なダンスだった。 だが二人は小声で話を交わしながら、春風のように軽々と踊った。






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