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道しるべ  141 驚きの瞬間


 イアンが愛馬を飛ばして館に戻ったのは、六時課の鐘(現在の正午の時報)が鳴る少し前だった。
 馬を厩舎に預けて出てくると、騎士見習のワット少年が小走りでやってきて、早口で言った。
「やっと見つけた! 王様の歓迎舞踏会をするのに、あなたがいないと話にならないって言われたんですよ、サー・イアン」
 イアンは目をしばたたいた。
「舞踏会? 夜やるんじゃなかったのか?」
「いえ、王様がお疲れで早くお寝みになりたいってことで」
 やれやれ。
 イアンはマントの裾についた埃を落とし、晴れ着の襟を整えながら、ワットについて正面扉から入っていった。


 大広間には贅沢に大きな窓がついていて、外光がたっぷり差し込んでいたが、それでも奥の壁に燭台が並び、きらきらと灯火が点されていた。
 角にしつらえた楽師席には、すでに演奏者たちが位置して、ヴィオーレや笛を取り出そうとしていた。 広い室内の上座に国王とアリス・ペラーズ、そして主人役のカー伯爵夫妻が座り、ゆったりと肘掛に腕を置いて会話を交わしている。 戸口から入ったイアンは、上座の四人に一礼して、ダンスの列の端に加わろうと足を運んだ。
 その途中、さりげなく列を見渡した視線が、定かでないあるものを捕らえた。
 それが何だったのか、後で考えても記憶になかった。
 ただ、感じた。 百人を軽く越える人垣の中に、幻の気配を。


 突然イアンが、男女に分かれた列の真中、大きな空白地帯になっている場所に踏み出したため、全員の目が一斉にそそがれた。
 注目の的になったことに、彼はまったく気づいていないように見えた。 ただ、様々な金色が光の筋のように入り混じった髪を揺らしてしゃにむに進み、やがて一つの顔を見つけて、ぴたりと足を止めた。
 彼の視線を追って、他の人々の頭も動いた。 その先にいたのは、小柄な女性だった。 爽やかな若草色の盛装をベネシアンレースと金の紐で上品に飾り、真珠をちりばめた精巧なヘッドドレスでふんわり頭を覆っていた。
 彼女は踊りの列には加わらず、その背後で中年の貴族らしい男に手を取られて、静かに立っていた。 二人の前には着飾った貴婦人たちが壁のように並んでいたのに、どうして彼女がイアンの視野に入ったのか、誰にもわからなかった。


 彼女はイアンと目が合った瞬間、傍にいた男性から手をもぎ離し、胸に当てて息を吸い込んだ。
 ふたりが石のように立ち尽くしたまま、瞬きもせず見つめ合っているのを、王は不思議そうに眺めた。 するとカー伯爵が椅子から立ち上がり、段を降りて、その若い女性に歩み寄った。
 静まり返った室内に、伯爵のなめらかなフランス語が響いた。
「レディ・クラリー、この春に騎士になったばかりの若者の失礼をお許しください。 世慣れないぶしつけな態度を取ったのも、貴方のあまりに清らかな美しさのため」
 その場の痛いような緊張がほぐれた。 王は歯を見せて笑い、クラリーと呼ばれた若い貴婦人に声をかけた。
「無理もない。 寛大なところを見せてやってはいかがかな? 一曲なりと、踊ってやっては?」






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