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表紙

道しるべ  125 欲しいもの


 相談がまとまった後、クリントは受け取った金貨を、器用なトムが縫った長い胴巻きの中に戻し、数冊の本しか入れていない大きな長櫃にしまいこんだ。
 当時の本は、羊皮紙に文字を手で書き入れるという非常に手間のかかる高価なもので、貴重品扱いだった。 だから、クリントの『本箱』には家族も触れてはいけないことになっていた。
「とりあえずは、ここに入れておこう。 後で隠し場所を作らなければなるまいが」
 そう言って、クリントは苦笑いを浮かべた。
「いやー、こんな大金は見たこともないから、持っていると不安になるな。 分不相応ってやつだな」


 十五分後、イアンとトムはクリント夫妻に別れを告げ、再び馬車と馬に乗って、領主の館を目指した。
 大きな金箱を荷台に載せ戻してから、トムは何度か腕を回して、凝りをほぐした。
「やはり重いよ。 しびれてきた」
「悪かったな。 おれの分まで持たせて」
 イアンの詫びにトムは笑い、のどかに歩む馬の手綱を持ち直した。
「さっきクリントさんの長櫃を見て、金の使い道を一つだけ思いついた」
「なんだ?」
 トムは瞬きした。
「本さ。 町に出るとき、本屋に行って一冊か二冊ずつ買うんだ。 本は小さいから、服の下に隠して帰れる」
 太く男らしい声に、憧れの響きが加わった。
「ああ〜、好きな本が自分のものになるなんて、想像もしなかった!」
 イアンは大きく頷いたが、声で相槌を打つことはできなかった。 不意に苦い涙で目が曇りそうになって、こらえるのに必死だった。
 好きなものだって?…… あんなに大事にしていた娘を、連れてこられなかったのに? 彼女に比べたら本なんて、ささやかすぎる喜びだ。
 みんなおれのせい。 おれがトムの幸せをぶち壊した。
 トムがどう慰めようと、イアンにはわかっていた。 ジョニーは行商人を刺してまで、必死になって帰ってきた。 それほど離れるのを嫌がっていたのに、結局去ることになったのは、二人の間にイアンが割り込んだためだった。




 丘の上に立つ領主館は、正午近くの明るい太陽の下で、前と変わらず堂々と美しく見えた。
 ここでは、イアンが帰国報告をしている間に、トムは馬車を裏庭に回し、荷物と貴重な金箱を、ひとまずイアンの部屋に入れておくことにした。 トムは相部屋だが、イアンはすでに専用の部屋を与えられていたからだ。
 奥の広間に招き入れられて少しの間、イアンはバルコニー付きの広いフランス窓から風景を眺めていた。
 起伏に富んだ様々な地形が、一望のもとにあった。 豊かな耕地の傍に荒野が延び、小川の向こうには岩だらけの崖がそびえている。 実戦に参加したからには、生きて戻ってこられるかどうかわからない故郷だった。 離れていた期間は予想よりも短かったが、イアンは感慨を込めてじっと見入った。


 やがて背後の扉が開く音がして、イアンは振り向いた。
 すると、小姓仲間だったローアン・ヴェルジェが、栗色のビロードの衣装に身を固めて、軽やかに入ってきた。








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