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道しるべ  121 塩を売って


 俺が手を出す前からか?
 イアンの顎が固まった。 どうにも動かせなくなっている内に、トムは言った。
「俺たちは、よかれと思ってあの子を連れ歩いた。 少なくとも、治安の悪いカレーの町で野垂れ死にするよりはよかったはずだ」
 トムの言葉は、自分に言い聞かせるように低く続いた。
「でも、戦いはひとまず終わった。 大規模な戦争はしばらくお預けだろう。 なにせ物凄く金がかかるからな。 だからジョニーは、仲間か家族の元に帰る気になったんだ」
「おれたちは仲間じゃなかったのか?」
 不意に、イアンの冷えた心の裂け間から、弱い叫びが漏れ出た。 すると、トムはすぐ太い腕をイアンの肩に巻いて、ぐっと引き寄せた。 控えめな彼には珍しい、厚い友情の仕草だった。
「仲間さ! ジョニーだってそう思っていたさ。 ただ、彼女の故郷はこの海の南側で、おれたちのは北側だった。 そういうことなんだ」


 トムはジョニーを探しに戻る気はないようだった。 少なくとも今のところは。
 イアンはほっとしたような、割り切れないような、半端な気持ちをもてあましていた。 好きだったのなら、なんで追いかけていかないんだろう。 またいつものように、限りない忍耐力で押し殺してしまったのでなければいいが。
 トムはすべてを我慢しすぎる、とイアンは思わずにはいられなかった。


 二人の若者の気持ちとはうらはらに、船は順調に航海を続け、翌日の早朝にはブリテン本島の海岸がかすかに見えるほど近づいた。
 そこで船長は、マストの上にハンザ同盟の旗を高々と掲げた。 そして、船内での連絡に使う言葉を英語に切り替えた。 長年の貿易相手だから、船員たちは多かれ少なかれ英語をしゃべることができた。
 こうして、船は無事に入港した。 突堤に船が横付けされ、もやい綱が結ばれると、イアンはすぐに知り合いの大商人ジャック・バンベリーの店を探しに行った。




 それから十日が経ち、イアンとトムは再び、故郷のヨークシャーへ戻る船上の人となった。
 フランス船には船賃と心づけを渡して、船員たちには酒代をふるまい、気持ちよく帰ってもらった。 英仏両国には正式な国交はないものの、様々な形で密かな交流は続いている。 向こうがきちんと契約を守ってくれたので、イアンたちも礼儀を尽くした。 また何かの機会で世話になるかもしれないのだから。
 それに今、二人は少しぐらい金を余計に使っても、びくともしない状況になっていた。 バンベリーに取引の仲介を頼んだのは、イアンの良い判断だった。 バンベリーは顔が広く、また持ち込んだ塩が最高級品質だったこともあって、限度一杯の高値ですべて売りさばくことができた。








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