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道しるべ
119 船に乗って
出航を半日早めることになったが、船員の頭数は無事に集まった。
海も比較的穏やかで、風は東から南東に変わりつつあった。 理想的な風向きだと、ごま塩頭の船長ジュヴェが言った。
「風がこのまんま動かなきゃ、三日か四日で着いちまいますぜ、若旦那」
「それはありがたい」
できるだけ大商人の代理らしい威厳を出そうとしながら、イアンは答えた。
そこへ、船倉からトムが上がってきた。 樽の数を点検し、荷上げで痛んでいないか見に行っていたのだ。
イアンと目が合うと、彼は陽気にラテン語で言った。
「すべて無事だ。 船が揺れても偏らないように並べておいた」
「じゃ、そろそろ船を出してもらうか」
離れた船べりに、ジョニーが帽子を目深に被って座っていた。 ときどき強くなる海風に、借り物の長いコートの裾がはためいた。
その様子を見ないようにしながら、イアンは船長に合図した。 ジュヴェ船長はすぐに腕を振り、錨がきしりながら巻き上げられた。
これでようやく、故郷へ帰れる。 ゆっくり離れていく港の風景を、イアンとトムは肩を並べて見守った。
石造りの突堤、砂利で舗装した荷降ろし場、灰色の倉庫群と護岸壁に開いた矢狭間。 忙しく行き来する人夫や船員の姿は、赤みがかった夕焼けの光の中に溶け込んで、間もなくはっきりしなくなった。
外海に出ると、凪いでいても船の揺れは大きくなった。 トムは、おそらく航海が初めてだと思われるジョニーが心配になって、船尾へ歩いていった。
イアンはフランス攻撃時の船旅で慣れていたので、船室に入って少し寝ようかと考えていた。 船が出てホッとしたとたん、ここ一両日の疲れが落石のようにのしかかってきたのだ。
箱の上に座りこんでいるジョニーに、トムが優しく手を触れるのを、見るともなく横目で眺めていると、いきなりトムが動きを止め、喉に詰まったような声を立てた。
驚きと嘆きが混じったような怒声に、イアンは驚いて身を起こした。
とっさに思ったのは、トムがジョニーと言い合いになって、英語でしゃべりはじめたらまずいということだった。 だから急いで足を運び、二人を覆い隠す角度で立ちはだかった。
「どうした?」
小声のラテン語で尋ねると、だいぶ暗くなった日暮れの弱い光の中で、トムがジョニーのコートを乱暴に引っぱった。
すると、コートはあっけないほど簡単に抜けた。 その下にあったのは、小さな空き樽を二つ積み重ねて棒にくくりつけたものだった。
立ち尽くす若者たちの前で、支えを失ったボロ帽子が甲板に落ち、風に舞い上げられて転がっていった。
トムは、どうしたらいいかわからない様子で、脇に垂らした手を握ったり開いたりしていた。
イアンは、ただぼんやりしていた。 突然、真冬の凍りかけた湖に漬けられたように、頭が麻痺して、何も考えられなかった。
やがてトムが、搾り出すような声で呟いた。
「あの子に金箱を持たせた。 だから一文無しじゃない」
それが彼の、一番つらい気がかりだったように。
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