表紙目次文頭前頁次頁
表紙

道しるべ  105 仮面の取引



 煉瓦と木材で作られた倉庫は、河口のすぐそばにあった。 歩きながら切り出し方を考えていたイアンは、建物の横にある小さな事務所を見つけると、着く前にトムに耳打ちした。
「たしかラテン語が話せるよな?」
 何事かという顔で、トムが見返してきた。
「まあ、坊主のなり損ないだからな」
「よし。 ドイツの学生のふりをしてくれ」
 トムはぽかんと口を開けた。
「なんだと?」
「賢いドイツ人に見えればいいんだよ。 実際に賢いんだし」
 そう言ってから、イアンは彼に作戦を語った。


 事務所の扉を開くと、すぐ部屋があった。 長いデスクに事務員が二人ついて、鵞ペンで書類を書いていた。
 若者たちを見ると、その一人が立ち上がって近づいてきた。
「何かご用で?」
 イアンは笑顔でうなずいてみせ、きびきびと用件に入った。
「港にある商船のことなんですが、貸してもらいたいんです。 船員もつけて」
 痩せた小柄な事務員は、顔を輝かせて奥の扉を手で指した。
「では、あちらにご案内します。 番頭のブノアさんにお会いください」


 ブノアは温厚そうな中肉中背の男で、リンネルのシャツと、地味だが上等なベルベットの上着を着ていた。
 彼に言われてビロードのクッションを置いた椅子に座ると、イアンはさっそく、作っておいた話を始めた。
「われわれはアントワープで商品を買い付け、イギリスへ運ぶ途中でしたが、先週の嵐で船が座礁してしまいました。
 なんとか積荷は無事だったものの、書類はすべて水につかった上、船員は逃げてしまい、困りはてています。 どうか、港にある船を貸してもらえませんか?」
 ブノアはいったん瞼を伏せ、それから茶色のボタンのような目でイアンを眺めた。
「イギリスですと? わが国の敵ではないですか」
「われわれはこの戦争には関係ありません」
 イアンはシラッと言い切り、ラテン語でトムに話しかけた。
「海がおだやかなうちに、早く出航したいものだが」
 トムは無表情を装って、高慢そうに答えた。
「当然のことだ。 噂によると、イギリス軍はもう逃げ帰ったそうだし」
 そこでイアンは番頭に向き直った。
「この人はハノーヴァー大学で神学を学んでいらっしゃる方です。 伯爵のご子息で、英国にいるご親戚を訪ねるところなのです」
 いかにも押し出しのいいトムと、見事なラテン語の相乗作用で、ブノアの表情に尊敬の色が見えた。 こういう人たちが海賊や密輸業者とは思えない、と判断したのだろう。 やがて警戒心を解いて、話に応じた。
 そうと決まると、番頭は手馴れた様子で事務員たちに指示を開始し、運航予定表を見て、荷物の積み込みが早ければ、明後日の朝にでも出航できると言った。
 その後、値段の交渉が始まった。 そこで、イギリスから攻め込むとき、船の徴用に関わったイアンの経験が物を言った。 彼は、八十トン前後のバルク船を借りるときの相場を、よく心得ていた。













表紙 目次 前頁 次頁
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送