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道しるべ  75 心の揺らぎ



 目測を誤って、イアンのコップはバランスを失い、かまどから転げ落ちて空ろな音を立てた。
 イアンは唇を噛みしめて、前にいる小さな姿を見下ろした。 心を見透かされたような、奇妙な不安を感じながら。
「トムはどこだ?」
 つい声が無愛想になった。 ジョニーは目を下げて、低く答えた。
「あっちのライオンの浮き彫りのある扉の中。 ヒューが誘って連れていったの」
 そうか、ヒューも酒があまり飲めないので、寝るまでの話し相手にトムを引っ張りこんだのだろう。
 そうとわかって、イアンも二人のいる部屋で寝る気になった。
「もう食ったか?」
 ジョニーはこっくりした。 子供っぽい仕草を見ていると、本当に十二歳ぐらいに思える。 イアンは気持ちがほぐれるのを感じ、少しやさしい声になった。
「今日はこれから寝るだけだ。 ただ、明日にちょっと頼みたいことがある」
 はっとした様子で、ジョニーは少しの間イアンを見つめていた。 だが、彼が口をつぐんだのを見て、明日まで説明はもらえないと悟ったらしく、踵を返しかけた。 そのとき、何気なく服の裾に触れたイアンは、チーズがまだ残っていたのに気づいた。
「おい」
 ジョニーはすぐに振り向いた。 緊張した顔をしている。 その肘の辺りを目掛けて、イアンはチーズの塊を放ってやった。
「残りもんだ。 やるよ」
 とっさに受け取って眺めた後、ジョニーの口元に微笑が広がった。 イアンにはめったに見せない、淡く光る微笑み……。
 イアンはふっと引き寄せられそうになった。 実際、いくらか体が前に傾きかけた。
 腕を伸ばして、あの柔らかそうな頬に触れたらどんなだろう。
 そのとき、料理人たちが突然大声で議論を始めて、つかの間の白昼夢は途切れた。
 イアンは唾を飲み下し、数度瞬きをして我に返った。 いったい今のは何だったんだ、と自分に問う暇を与えず、彼は向きを変えて厨房を後にした。


 翌朝も、まだ長雨は残っていた。 敵が大きな隊を組むのを止めて、どこかへ分散していったらしいという話が、夜のうちに伝わり、兵士たちは出発合図が出ないこともあって、なんとなくだらけた風で建物内にひしめき合っていた。
 こちらの隊には、イングランドやウェールズの兵だけでなく、フランス人の部隊も一部混在している。 貴族たちはたいていフランス語が話せたし、だめなときはラテン語で会話できたが、郷士はあまりしゃべれなかった。 そして、フランス方は外国語など、たとえ知っていてもわからないふりをした。
 だから、イアンは連絡係として、ときには一人で、ときには部下や小姓を引き連れて、席の温まる暇がないほどあちこちに出向き、更には意見も言葉も異なる貴族たちの間に入って気を静めさせる役まで努めた。
 暇な軍隊の中で、彼とクリントだけが忙しく仕事をしているという状態だった。 それで、ジョニーに女を探らせるという任務を言いつける時間が、どうしても取れなかった。


 午後になって、ようやく方針が決まった。 ルーアン付近にサン・フレール子爵の軍隊が集結しているという情報がもたらされたのだ。 まずそこを叩いて、新たな敵の動きを知り、一日も早く決戦に持ち込む。 とにもかくにも、兵士たちの士気が落ちないうちに、戦闘を行なう必要があった。















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