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道しるべ  73 忍び寄る影



 ごく低い声で、クリントは囁きかけた。
「誰かいる」
 イアンは息を呑み、音を立てずに扉の横へ移動した。 そして、ゆっくり剣を抜き放ってから、いきなり扉を引き開けた。
 その目に、思いもかけないものが飛び込んできた。 派手な赤と青のドレスを着て、髪に造花を飾った若い女だ。
 その女は、イアンと顔を合わせたとたんにニッコリして、かすれの入った色っぽい声で尋ねた。
「まあ、あんたがグウィン様? あたしって何てついてるんだろう」
 イアンは勢いをそがれて、肩をそびやかした。
「おれはグウィンじゃない。 呼ばれたのか?」
「そうよ」
 女は豊かな胸の間に手を入れて、クラウン銀貨を出してみせた。
「部下の人に前払いしてもらったの。 階段から三番目の部屋で待ってるって言われたんだけど」
「ここは四番目だ」
 奥からクリントが野太い声を出した。
 女は慌てた様子もなく、ハンサムなイアンに軽く寄りかかって微笑みかけてから、体を離した。
「じゃ、隣なんだ。 お邪魔したわね、美男の騎士様」


 商売女が道に迷っただけか。
 イアンが眉を上げ、戸を閉めて戻りかけたとき、クリントがぽつりと言った。
「あの女は敵だ」
 イアンの足が止まった。 踵を返して後を追おうとすると、再びクリントの声がかかった。
「泳がせておけ。 相当したたかだから、他にも仲間がいるだろう。 顔を覚えたか?」
「はい」
「あの女は確かに立ち聞きしていた。 本当に呼ばれただけなら、おまえが抜き身の剣を持って扉を開けたときにおびえるはずだが、すぐ芝居を打った。 前もって考えていた口実だから、とっさに出たんだ。
 女の様子を探れ。 おまえは相手に見られたから、部下に任せろ」
 そこで、クリントの頑健な顔に苦笑が浮かんだ。
「アルフォンソはやめておけよ。 あんなに惚れっぽい男はないからな」
「わかりました。 女に足をすくわれない者にやらせます」
 クリントは頷き、机を回って窓辺に立った。 考え込んでいる表情だった。
「それにしても、俺はワイツヴィル伯爵軍の司令官にすぎんのに、なぜわざわざ立ち聞きを」
「実戦での誉れが高く、実力者と認められているからですよ」
 誇らしくて、イアンは胸を張って答えた。 確かにクリントは、名目上は地方軍の指揮官にすぎないが、貴族たちの作戦会議でも真っ先に意見が求められ、頼られていると評判だった。
 クリントは窓辺から振り返った。 その顔はイアンの賛辞を聞いても嬉しそうではなく、むしろ苦渋を感じさせた。
「確かにそういう面はある。 だがな、今度の戦いは前のようにはいかない。 フランス王は地方税を国税に付け替えて豊かになった。 武器も人員もふんだんに持っているらしい」
「でも団結力では我々のほうが上です」
 派手好きで、すぐ一騎打ちをしたがるフランスの騎士の話を聞いているので、イアンは強気だった。
 クリントはかすかに目を細めて、愛弟子を眺めた。 そして、嘆息するような口調で語りかけた。
「それが若さだな。 よくも悪くも前向きで。 だが用心も必要だぞ。 敵をあなどるな」
「はい、胸に刻みます」
 クリントが真面目に訓を垂れたので、イアンも真剣に答えた。


 司令官の部屋を出た後、イアンは女スパイのことを考えながら、すばやく階段を降りた。
 トムに頼むか? いや駄目だ。 真っ正直すぎて、人を探るなどという真似はできっこない。 おまけに体が大きすぎて、どこにいても目立ちまくりだ。
 ニッキーはクリントの世話をしているし、ローウェンは遠征についてきていない。 他の部下たちは、彼らほど信用がおけないし……。
 不意にイアンの顔が上がった。
 ジョニーにやらせよう。
 あの子が女を探り、おれがジョニーをさりげなく見張る。 これは試金石だ。 ジョニーが本当に信用できる仲間なのか、これでわかる。
















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